袖で秘《かく》すらしい、というだけでも、この話の運びを辿《たど》って、読者も、あらかじめ頷《うなず》かるるであろう、この婦《おんな》は姙娠している。
「私が、そこへ行《ゆ》きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
 婦《おんな》は、格子に縋《すが》って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
 落ついて静《しずか》にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細《ほっそ》りした姿で、薄い色の褄《つま》を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合《かきあ》わせ掻合わせするのが、茂りの彼方《かなた》に枝透いて、簾《すだれ》越に薬玉《くすだま》が消えんとする。
 やがて、向直って階《きざはし》を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明《わきあけ》を洩《も》れるまで、ふっくりと、やや円い。
 牡丹《ぼたん》を抱《いだ》いた白鷺の風情である。
 見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
 と、すぐその榎の根の湧水《わきみず》に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入《さしい》れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉《のど》へ通りそうに見えたが、掬《く》もうとすると、掌《たなそこ》が薄く、玉の数珠《じゅず》のように、雫《しずく》が切れて皆|溢《こぼ》れる。
「両掌《りょうて》でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何《な》にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧《おさ》え、やっぱり腹部を蔽《おお》うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込《つっこ》まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓《ひしゃく》があるんですけど。」
「柄杓、」
 手水鉢《ちょうずばち》に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い苔《こけ》だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
 それだと毎日この祠《ほこら》へ。
「あ、あ。」
 と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
 唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
 とて、柄を手巾《ハンケチ》で拭《ふ》いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「満々《なみなみ》と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
 とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ沁《し》みます。」
 と清《すず》しく云った。
 小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜《ななめ》に視《み》ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲《く》んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
 と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
 と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰《ひそ》めた。乳《ち》の下を且つ蔽《おお》う袖。
「一度、二十許《はたちばか》りの親類の娘を連れて、鬼子母神《きしもじん》へ参詣《さんけい》をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂《おどう》の燈明で視《み》た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜《りん》として……白さは白粉《おしろい》以上なんです。――前刻《さっき》も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
 誓はうつむく。
 その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠《こも》ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだ
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