である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血《なまち》が踵《かかと》を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
 青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「貴女《あなた》、貴女、誰方《どなた》にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
 髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
 とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん――」
 冴《さ》えて、澄み、すこし掠《かす》れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢《こずえ》から化鳥《けちょう》が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
 この場合、声はまた心持|涸《か》れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
 夏は簾《すだれ》、冬は襖《ふすま》、間《ま》を隔てた、もの越《ごし》は、人を思うには一段、床《ゆか》しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
 まだ人間に返り切れぬ。薙刀|怯《おび》えの蝉は、少々|震声《ふるえごえ》して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果《はて》なんですの。」
「あ、危い。」
 長刀《なぎなた》は朽縁《くちえん》に倒れた。その刃の平《ひら》に、雪の掌《たなそこ》を置くばかり、たよたよと崩折《くずお》れて、顔に片袖を蔽《おお》うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人《おちゅうど》となって、辻堂に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》った伝説を目《ま》のあたり、見るものの目に、幽窈《ゆうよう》、玄麗《げんれい》の趣があって、娑婆《しゃば》近い事のようには思われぬ。
 話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑《にぎわ》った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
 その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路《やまみち》、野道を分入った僻村《へきそん》であるものを。――
 ――実は、銑吉は、これより先き、麓《ふもと》の西明寺の庫裡《くり》の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入《ハンドバック》を見たし、続いて、准胝観音《じゅんでいかんのん》の御廚子《みずし》の前に、菩薩が求児擁護《ぐうじようご》の結縁《けちえん》に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女|扇子《おうぎ》の銀砂子《ぎんすなご》の端《はし》に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥《はるか》にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
 かえって、木魚に圧《お》された提紙入には、美女の古寺の凌辱《りょうじょく》を危《あやぶ》み、三方の女扇子には、姙娠の婦人《おんな》の生死《しょうし》を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品《ふたしな》のいわれに触れるのさえ厭《いと》うらしいので、そのまま黙した事実があった。
 ただ、あだには見過し難《がた》い、その二品に対する心ゆかしと、帰路《かえり》には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
 いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬《たとえ》にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。

       三

「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
 きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃《ひら》めかして薙《な》ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後《うしろ》むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を
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