――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親《よりおや》同様。これといって行《ゆ》きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
 はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿《やど》が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
 そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道|端《ばた》の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行《ゆ》き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲《く》んで取って、香水だと賞《ほ》めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」
 と頬も冷たそうに、うら寂しく、
「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥《ずいしょう》はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子《あんこ》ではあんまりだ、黄色い白粉《おしろい》でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留《ながとうりゅう》の退屈ばらし、それには馴《な》れた軽はずみ……」
 歎息《ためいき》も弱々と、
「もっとも煩《うるさ》いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家《うち》のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入《いり》かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽《たのし》みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経《た》ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視《み》ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいり
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