森の紫陽花
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)千駄木《せんだぎ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》へる

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちやら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 千駄木《せんだぎ》の森《もり》の夏《なつ》ぞ晝《ひる》も暗《くら》き。此處《こゝ》の森《もり》敢《あへ》て深《ふか》しといふにはあらねど、おしまはし、周圍《しうゐ》を樹林《きばやし》にて取卷《とりま》きたれば、不動坂《ふどうざか》、團子坂《だんござか》、巣鴨《すがも》などに縱横《たてよこ》に通《つう》ずる蜘蛛手《くもで》の路《みち》は、恰《あたか》も黄昏《たそがれ》に樹深《こぶか》き山路《やまぢ》を辿《たど》るが如《ごと》し。尤《もつと》も小石川《こいしかは》白山《はくさん》の上《うへ》、追分《おひわけ》のあたりより、一圓《いちゑん》の高臺《たかだい》なれども、射《い》る日《ひ》の光《ひかり》薄《うす》ければ小雨《こさめ》のあとも路《みち》は乾《かわ》かず。此《こ》の奧《おく》に住《す》める人《ひと》の使《つか》へる婢《をんな》、やつちや場《ば》に青物《あをもの》買《か》ひに出《い》づるに、いつも高足駄《たかあしだ》穿《は》きて、なほ爪先《つまさき》を汚《よご》すぬかるみの、特《こと》に水溜《みづたまり》には、蛭《ひる》も泳《およ》ぐらんと氣味惡《きみわる》きに、唯《たゞ》一重《ひとへ》森《もり》を出《い》づれば、吹通《ふきとほ》しの風《かぜ》砂《すな》を捲《ま》きて、雪駄《せつた》ちやら/\と人《ひと》の通《とほ》る、此方《こなた》は裾端折《すそはしをり》の然《しか》も穿物《はきもの》の泥《どろ》、二《に》の字《じ》ならぬ奧山住《おくやまずみ》の足痕《あしあと》を、白晝《はくちう》に印《いん》するが極《きまり》惡《わる》しなど歎《かこ》つ。
 嘗《かつ》て雨《あめ》のふる夜《よ》、其《そ》の人《ひと》の家《いへ》より辭《じ》して我家《わがや》に歸《かへ》ることありしに、固《もと》より親《おや》いまさず、いろと提灯《ちやうちん》は持《も》たぬ身《み》の、藪《やぶ》の前《まへ》、祠《ほこら》のうしろ、左右《さいう》畑《はたけ》の中《なか》を拾《ひろ》ひて、蛇《じや》の目《め》の傘《からかさ》脊筋《せすぢ》さがりに引《ひつ》かつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路《みち》の、ともすれば、ぬかるみの撥《はね》ひやりとして、然《さ》らぬだに我《わ》が心《こゝろ》覺束《おぼつか》なきを、やがて追分《おひわけ》の方《かた》に出《いで》んとして、森《もり》の下《した》に入《い》るよとすれば呀《や》、眞暗《まつくら》三寶《さんばう》黒白《あやめ》も分《わ》かず。今《いま》までは、春雨《はるさめ》に、春雨《はるさめ》にしよぼと濡《ぬ》れたもよいものを、夏《なつ》はなほと、はら/\はらと降《ふ》りかゝるを、我《われ》ながらサテ情知《なさけし》り顏《がほ》の袖《そで》にうけて、綽々《しやく/\》として餘裕《よゆう》ありし傘《からかさ》とともに肩《かた》をすぼめ、泳《およ》ぐやうなる姿《すがた》して、右手《めて》を探《さぐ》れば、竹垣《たけがき》の濡《ぬ》れたるが、する/\と手《て》に觸《さは》る。左手《ゆんで》を傘《かさ》の柄《え》にて探《さぐ》りながら、顏《かほ》ばかり前《まへ》に出《だ》せば、此《こ》の折《をり》ぞ、風《かぜ》も遮《さへぎ》られて激《はげ》しくは當《あた》らぬ空《そら》に、蜘蛛《くも》の巣《す》の頬《ほゝ》にかゝるも侘《わび》しかりしが、然《さ》ばかり降《ふ》るとも覺《おぼ》えざりしに、兎《と》かうして樹立《こだち》に出《い》づれば、町《まち》の方《かた》は車軸《しやぢく》を流《なが》す雨《あめ》なりき。
 蚊遣《かやり》の煙《けむり》古井戸《ふるゐど》のあたりを籠《こ》むる、友《とも》の家《いへ》の縁端《えんばた》に罷來《まかりき》て、地切《ぢぎり》の強煙草《つよたばこ》を吹《ふ》かす植木屋《うゑきや》は、年《とし》久《ひさ》しく此《こ》の森《もり》に住《す》めりとて、初冬《はつふゆ》にもなれば、汽車《きしや》の音《おと》の轟《とゞろ》く絶間《たえま》、凩《こがらし》の吹《ふ》きやむトタン、時雨《しぐれ》來《く》るをり/\ごとに、狐《きつね》狸《たぬき》の今《いま》も鳴《な》くとぞいふなる。然《さ》もあるべし、但《たゞ》狸《たぬき》の聲《こゑ》は、老夫《を
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