中《なか》より暮《く》れ初《そ》めて、小暗《をぐら》きわたり蚊柱《かばしら》は家《いへ》なき處《ところ》に立《た》てり。袂《たもと》すゞしき深《ふか》みどりの樹蔭《こかげ》を行《ゆ》く身《み》には、あはれ小《ちひ》さきものども打《うち》群《む》れてもの言《い》ひかはすわと、それも風情《ふぜい》かな。分《わ》けて見詰《みつ》むるばかり、現《うつゝ》に見《み》ゆるまで美《うつく》しきは紫陽花《あぢさゐ》なり。其《そ》の淺葱《あさぎ》なる、淺《あさ》みどりなる、薄《うす》き濃《こ》き紫《むらさき》なる、中《なか》には紅《くれなゐ》淡《あは》き紅《べに》つけたる、額《がく》といふとぞ。夏《なつ》は然《さ》ることながら此《こ》の邊《あたり》分《わ》けて多《おほ》し。明《あかる》きより暗《くら》きに入《い》る處《ところ》、暗《くら》きより明《あかる》きに出《い》づる處《ところ》、石《いし》に添《そ》ひ、竹《たけ》に添《そ》ひ、籬《まがき》に立《た》ち、戸《と》に彳《たゝず》み、馬蘭《ばらん》の中《なか》の、古井《ふるゐ》の傍《わき》に、紫《むらさき》の俤《おもかげ》なきはあらず。寂《じやく》たる森《もり》の中《なか》深《ふか》く、もう/\と牛《うし》の聲《こゑ》して、沼《ぬま》とも覺《おぼ》しき泥《どろ》の中《なか》に、埒《らち》もこはれ/″\牛《うし》養《やしな》へる庭《には》にさへ紫陽花《あぢさゐ》の花《はな》盛《さかり》なり。
此時《このとき》、白襟《しろえり》の衣紋《えもん》正《たゞ》しく、濃《こ》いお納戸《なんど》の單衣《ひとへ》着《き》て、紺地《こんぢ》の帶《おび》胸《むな》高《たか》う、高島田《たかしまだ》の品《ひん》よきに、銀《ぎん》の平打《ひらうち》の笄《かうがい》のみ、唯《たゞ》黒髮《くろかみ》の中《なか》に淡《あは》くかざしたるが、手車《てぐるま》と見《み》えたり、小豆色《あづきいろ》の膝《ひざ》かけして、屈竟《くつきやう》なる壯佼《わかもの》具《ぐ》したるが、車《くるま》の輪《わ》も緩《ゆる》やかに、彼《か》の蜘蛛手《くもで》の森《もり》の下道《したみち》を、訪《と》ふ人《ひと》の家《いへ》を尋《たづ》ね惱《なや》みつと覺《おぼ》しく、此處《こゝ》彼處《かしこ》、紫陽花《あぢさゐ》咲《さ》けりと見《み》る處《ところ》、必《かなら》ず、一時《ひととき》ば
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