雪霊続記
泉鏡花
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(例)一事《あるよう》を
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(例)晩方|武生《たけふ》駅(越前《えちぜん》)へ
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一
機会がおのずから来ました。
今度の旅は、一体はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、そこで、一事《あるよう》を済《すま》したあとを、姫路行の汽車で東京へ帰ろうとしたのでありました。――この列車は、米原《まいばら》で一体分身して、分れて東西へ馳《はし》ります。
それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方|武生《たけふ》駅(越前《えちぜん》)へ留ったのです。強いて一町場《ひとちょうば》ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。
元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖《いたどり》の里に、もとの蔦屋《つたや》(旅館)のお米《よね》さんを訪ねようという……見る見る積る雪の中に、淡雪の消えるような、あだなのぞみがあったのです。でその望《のぞみ》を煽《あお》るために、もう福井あたりから酒さえ飲んだのでありますが、酔いもしなければ、心も定《きま》らないのでありました。
ただ一夜、徒《いたず》らに、思出の武生の町に宿っても構わない。が、宿りつつ、そこに虎杖の里を彼方《かなた》に視《み》て、心も足も運べない時の儚《はかな》さにはなお堪えられまい、と思いなやんでいますうちに――
汽車は着きました。
目をつむって、耳を圧《おさ》えて、発車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やや三十分過ぎて、やがて、駅員にその不通の通達を聞いた時は!
雪がそのままの待女郎《まちじょろう》になって、手を取って導くようで、まんじ巴《ともえ》の中空《なかぞら》を渡る橋は、さながらに玉の桟橋《かけはし》かと思われました。
人間は増長します。――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠《はたご》は取らないで、すぐにお米さんの許《もと》へ、そうだ、行って行《ゆ》けなそうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思って、早や壁も天井も雪の空のようになった停車場《ステエション》に、しばらく考えていましたが、余り不躾《ぶしつけ》だと己《おのれ》を制して、やっぱり一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乗客の中《うち》で、停車場《ステエション》を離れましたのは、多分私が一番あとだったろうと思います。
大雪です。
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「雪やこんこ、
霰《あられ》やこんこ。」
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大雪です――が、停車場《ステエション》前の茶店では、まだ小児たちの、そんな声が聞えていました。その時分は、山の根笹を吹くように、風もさらさらと鳴りましたっけ。町へ入るまでに日もとっぷりと暮果てますと、
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「爺《じい》さイのウ婆《ばば》さイのウ、
綿雪小雪が降るわいのウ、
雨炉も小窓もしめさっし。」
[#ここで字下げ終わり]
と寂しい侘《わび》しい唄の声――雪も、小児《こども》が爺婆《じいばあ》に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺《ゆす》りました。
店屋さえもう戸が閉《しま》る。……旅籠屋も門を閉《とざ》しました。
家名《いえな》も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込《かけこ》みましたのですから、場所は町の目貫《めぬき》の向《むき》へは遠いけれど、鎮守の方へは近かったのです。
座敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉《ゆうげ》もさびしゅうございました。
若狭鰈《わかさがれい》――大すきですが、それが附木《つけぎ》のように凍っています――白子魚乾《しらすぼし》、切干大根《きりぼしだいこん》の酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの――しかし、何となく可懐《なつかし》くって涙ぐまるるようでした、なぜですか。……
酒も呼んだが酔いません。むかしの事を考えると、病苦を救われたお米さんに対して、生意気らしく恥かしい。
両手を炬燵《こたつ》にさして、俯向《うつむ》いていました、濡れるように涙が出ます。
さっという吹雪であります。さっと吹くあとを、ごうーと鳴る。……次第に家ごと揺《ゆす》るほどになりましたのに、何という寂寞《さびしさ》だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見《すきみ》する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くなります、雨戸の隙《すき》へ鳥の嘴《くちばし》程吹込む雪です。
「大雪の降る夜《よ》など、町の路《みち》が絶えますと、三日も四日も私一人――」
三年以前に逢《あ》った時、……お米さんが言ったのです。
……………………
「路の絶える。大雪の夜《よ》。」
お米さんが、あの虎杖の里の、この吹雪に……
「……ただ一人。」――
私は決然として、身ごしらえをしたのであります。
「電報を――」
と言って、旅宿を出ました。
実はなくなりました父が、その危篤《きとく》の時、東京から帰りますのに、(タダイマココマデキマシタ)とこの町から発信した……偶《ふ》とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火《つけび》か強盗、人殺《ひとごろし》に疑われはしまいかと危《あやぶ》むまでに、さんざん思い惑《まど》ったあとです。
ころ柿のような髪を結った霜げた女中が、雑炊《ぞうすい》でもするのでしょう――土間で大釜《おおがま》の下を焚《た》いていました。番頭は帳場に青い顔をしていました。が、無論、自分たちがその使《つかい》に出ようとは怪我《けが》にも言わないのでありました。
二
「どうなるのだろう……とにかくこれは尋常事《ただごと》じゃない。」
私は幾度《いくたび》となく雪に転び、風に倒れながら思ったのであります。
「天狗《てんぐ》の為《な》す業《わざ》だ、――魔の業だ。」
何しろ可恐《おそろし》い大《おおき》な手が、白い指紋の大渦を巻いているのだと思いました。
いのちとりの吹雪の中に――
最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――そうは言っても、小高い場所に雪が積ったのではありません、粉雪《こゆき》の吹溜《ふきだま》りがこんもりと積ったのを、哄《どっ》と吹く風が根こそぎにその吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの数《すう》ではない。波の重《かさな》るような、幾つも幾つも、颯《さっ》と吹いて、むらむらと位置を乱して、八方へ高くなります。
私はもう、それまでに、幾度《いくたび》もその渦にくるくると巻かれて、大《おおき》な水の輪に、孑孑虫《ぼうふらむし》が引《ひっ》くりかえるような形で、取っては投げられ、掴《つか》んでは倒され、捲《ま》き上げては倒されました。
私は――白昼、北海の荒波の上で起る処のこの吹雪の渦を見た事があります。――一度は、たとえば、敦賀《つるが》湾でありました――絵にかいた雨竜《あまりょう》のぐるぐると輪を巻いて、一条《ひとすじ》、ゆったりと尾を下に垂れたような形のものが、降りしきり、吹煽《ふきあお》って空中に薄黒い列を造ります。
見ているうちに、その一つが、ぱっと消えるかと思うと、たちまち、ぽっと、続いて同じ形が顕《あらわ》れます。消えるのではない、幽《かすか》に見える若狭《わかさ》の岬へ矢のごとく白くなって飛ぶのです。一つ一つがみなそうでした。――吹雪の渦は湧《わ》いては飛び、湧いては飛びます。
私の耳を打ち、鼻を捩《ね》じつつ、いま、その渦が乗っては飛び、掠《かす》めては走るんです。
大波に漂う小舟は、宙天に揺上《ゆすりあげ》らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落《もみおと》さるる時は、海底の巌《いわ》の根なる藻の、紅《あか》き碧《あお》きをさえ見ると言います。
風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流《ながれ》も、その屋根を圧して果しなく十重《とえ》二十重《はたえ》に高く聳《た》ち、遥《はるか》に連《つらな》る雪の山脈も、旅籠《はたご》の炬燵《こたつ》も、釜《かま》も、釜の下なる火も、果《はて》は虎杖の家、お米さんの薄色の袖、紫陽花《あじさい》、紫の花も……お米さんの素足さえ、きっぱりと見えました。が、脈を打って吹雪が来ると、呼吸は咽《むせ》んで、目は盲《めしい》のようになるのでありました。
最早《もはや》、最後かと思う時に、鎮守の社《やしろ》が目の前にあることに心着いたのであります。同時に峰の尖《とが》ったような真白《まっしろ》な杉の大木を見ました。
雪難之碑のある処――
天狗――魔の手など意識しましたのは、その樹のせいかも知れません。ただしこれに目標《めじるし》が出来たためか、背に根が生えたようになって、倒れている雪の丘の飛移るような思いはなくなりました。
まことは、両側にまだ家のありました頃は、――中に旅籠も交っています――一面識はなくっても、同じ汽車に乗った人たちが、疎《まばら》にも、それぞれの二階に籠《こも》っているらしい、それこそ親友が附添っているように、気丈夫に頼母《たのも》しかったのであります。もっともそれを心あてに、頼む。――助けて――助けて――と幾度《いくたび》か呼びました。けれども、窓一つ、ちらりと燈火《ともしび》の影の漏れて答うる光もありませんでした。聞える筈《はず》もありますまい。
いまは、ただお米さんと、間に千尺の雪を隔つるのみで、一人死を待つ、……むしろ目を瞑《ねむ》るばかりになりました。
時に不思議なものを見ました――底《そこひ》なき雪の大空の、なおその上を、プスリと鑿《のみ》で穿《うが》ってその穴から落ちこぼれる……大きさはそうです……蝋燭《ろうそく》の灯の少し大《おおき》いほどな真蒼《まっさお》な光が、ちらちらと雪を染め、染めて、ちらちらと染めながら、ツツと輝いて、その古杉の梢《こずえ》に来て留りました。その青い火は、しかし私の魂がもう藻脱けて、虚空へ飛んで、倒《さかさま》に下の亡骸《なきがら》を覗《のぞ》いたのかも知れません。
が、その影が映《さ》すと、半ば埋《うも》れた私の身体《からだ》は、ぱっと紫陽花に包まれたように、青く、藍《あい》に、群青《ぐんじょう》になりました。
この山の上なる峠の茶屋を思い出す――極暑、病気のため、俥《くるま》で越えて、故郷へ帰る道すがら、その茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫陽花で包まれていました。――私の顔の色も同じだったろうと思う、手も青い。
何より、嫌な、可恐《おそろし》い雷が鳴ったのです。たださえ破《わ》れようとする心臓に、動悸《どうき》は、破障子《やれしょうじ》の煽《あお》るようで、震える手に飲む水の、水より前《さき》に無数の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。
その時の苦しさ。――今も。
三
白い梢の青い火は、また中空《なかぞら》の渦を映し出す――とぐろを巻き、尾を垂れて、海原のそれと同じです。いや、それよりも、峠で尾根に近かった、あの可恐《おそろし》い雲の峰にそっくりであります。
この上、雷。
大雷は雪国の、こんな時に起ります。
死力を籠《こ》めて、起上ろうとすると、その渦が、風で、ごうと巻いて、捲《ま》きながら乱るると見れば、計知《はかりし》られぬ高さから颯《さっ》と大滝を揺落《ゆりおと》すように、泡沫《あわ》とも、しぶきとも、粉とも、灰とも、針とも分かず、降埋《ふりうず》める。
「あっ。」
私はまた倒れました。
怪火《あやしび》に映る、その大
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