滝の雪は、目の前なる、ズツンと重い、大《おおき》な山の頂から一雪崩《ひとなだ》れに落ちて来るようにも見えました。
 引挫《ひっし》がれた。
 苦痛の顔の、醜さを隠そうと、裏も表も同じ雪の、厚く、重い、外套《がいとう》の袖を被《かぶ》ると、また青い火の影に、紫陽花の花に包まれますようで、且つ白羽二重の裏に薄萌黄《うすもえぎ》がすッと透《とお》るようでした。
 ウオオオオ!
 俄然《がぜん》として耳を噛《か》んだのは、凄《すご》く可恐《おそろし》い、且つ力ある犬の声でありました。
 ウオオオオ!
 虎の嘯《うそぶ》くとよりは、竜の吟ずるがごとき、凄烈《せいれつ》悲壮な声であります。
 ウオオオオ!
 三声を続けて鳴いたと思うと……雪をかついだ、太く逞《たくま》しい、しかし痩《や》せた、一頭の和犬、むく犬の、耳の青竹をそいだように立ったのが、吹雪の滝を、上の峰から、一直線に飛下りたごとく思われます。たちまち私の傍《そば》を近々と横ぎって、左右に雪の白泡《しらあわ》を、ざっと蹴立《けた》てて、あたかも水雷艇の荒浪を切るがごとく猛然として進みます。
 あと、ものの一町ばかりは、真白《まっしろ》な一条の路が開けました。――雪の渦が十オばかりぐるぐると続いて行《ゆ》く。……
 これを反対にすると、虎杖の方へ行《ゆ》くのであります。
 犬のその進む方は、まるで違った道でありました。が、私は夢中で、そのあとに続いたのであります。
 路は一面、渺々《びょうびょう》と白い野原になりました。
 が、大犬の勢《いきおい》は衰えません。――勿論、行《ゆ》くあとに行くあとに道が開けます。渦が続いて行く……
 野の中空を、雪の翼を縫って、あの青い火が、蜿々《うねうね》と蛍のように飛んで来ました。
 真正面《まっしょうめん》に、凹字形《おうじけい》の大《おおき》な建ものが、真白《まっしろ》な大軍艦のように朦朧《もうろう》として顕《あらわ》れました。と見ると、怪し火は、何と、ツツツと尾を曳《ひ》きつつ、先へ斜《ななめ》に飛んで、その大屋根の高い棟なる避雷針の尖端《とったん》に、ぱっと留って、ちらちらと青く輝きます。
 ウオオオオオ
 鉄づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋《うず》まった真中《まんなか》を、犬は山を乗るように入ります。私は坂を越すように続きました。
 ドンと鳴って、犬の頭突《ずつ》きに、扉が開《あ》いた。
 余りの嬉しさに、雪に一度手を支《つか》えて、鎮守の方を遥拝《ようはい》しつつ、建ものの、戸を入りました。
 学校――中学校です。
 ト、犬は廊下を、どこへ行ったか分りません。
 途端に……
 ざっざっと、あの続いた渦が、一ツずつ数万の蛾《が》の群ったような、一人の人の形になって、縦隊一列に入って来ました。雪で束《つか》ねたようですが、いずれも演習行軍の装《よそおい》して、真先《まっさき》なのは刀《とう》を取って、ぴたりと胸にあてている。それが長靴を高く踏んでずかりと入る。あとから、背嚢《はいのう》、荷銃《にないづつ》したのを、一隊十七人まで数えました。
 うろつく者には、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、粛然として廊下を長く打って、通って、広い講堂が、青白く映って開く、そこへ堂々と入ったのです。
「休め――」
 ……と声する。
 私は雪籠《ゆきごも》りの許《ゆるし》を受けようとして、たどたどと近づきましたが、扉のしまった中の様子を、硝子窓越《がらすまどごし》に、ふと見て茫然《ぼうぜん》と立ちました。
 真中《まんなか》の卓子《テエブル》を囲んで、入乱れつつ椅子に掛けて、背嚢も解かず、銃を引つけたまま、大皿に装《よそ》った、握飯、赤飯、煮染《にしめ》をてんでんに取っています。
 頭《かしら》を振り、足ぶみをするのなぞ見えますけれども、声は籠って聞えません。
 ――わあ――
 と罵《ののし》るか、笑うか、一つ大声が響いたと思うと、あの長靴なのが、つかつかと進んで、半月|形《がた》の講壇に上って、ツと身を一方に開くと、一人、真《まっ》すぐに進んで、正面の黒板へ白墨《チョオク》を手にして、何事をか記すのです、――勿論、武装のままでありました。
 何にも、黒板へ顕れません。
 続いて一人、また同じ事をしました。
 が、何にも黒板へ顕れません。
 十六人が十六人、同じようなことをした。最後に、肩と頭《かしら》と一団になったと思うと――その隊長と思うのが、衝《つつ》と面《おもて》を背けました時――苛《いら》つように、自棄《やけ》のように、てんでんに、一斉《いちどき》に白墨《チョオク》を投げました。雪が群って散るようです。
「気をつけ。」
 つつと鷲《わし》が片翼を長く開いたように、壇をかけて列が整う。
「右向け、右――前へ!」
 入口が背後にあるか、……吸わるるように消えました。
 と思うと、忽然《こつねん》として、顕れて、むくと躍って、卓子《テエブル》の真中《まんなか》へ高く乗った。雪を払えば咽喉《のど》白くして、茶の斑《まだら》なる、畑《はた》将軍のさながら犬獅子《けんじし》……
 ウオオオオ!
 肩を聳《そばだ》て、前脚をスクと立てて、耳がその円天井《まるてんじょう》へ届くかとして、嚇《かっ》と大口を開けて、まがみは遠く黒板に呼吸《いき》を吐いた――
 黒板は一面|真白《まっしろ》な雪に変りました。
 この猛犬は、――土地ではまだ、深山《みやま》にかくれて活《い》きている事を信ぜられています――雪中行軍に擬して、中の河内《かわち》を柳ヶ瀬へ抜けようとした冒険に、教授が二人、某《それの》中学生が十五人、無慙《むざん》にも凍死をしたのでした。――七年|前《ぜん》――
 雪難之碑はその記念だそうであります。
 ――その時、かねて校庭に養われて、嚮導《きょうどう》に立った犬の、恥じて自ら殺したとも言い、しからずと言うのが――ここに顕れたのでありました。
 一行が遭難の日は、学校に例として、食饌《しょくせん》を備えるそうです。ちょうどその夜《よ》に当ったのです。が、同じ月、同じ夜《よ》のその命日は、月が晴れても、附近の町は、宵から戸を閉じるそうです、真白《まっしろ》な十七人が縦横に町を通るからだと言います――後でこれを聞きました。
 私は眠るように、学校の廊下に倒れていました。
 翌早朝、小使部屋の炉《いろり》の焚火に救われて蘇生《よみがえ》ったのであります。が、いずれにも、しかも、中にも恐縮をしましたのは、汽車の厄に逢った一|人《にん》として、駅員、殊に駅長さんの御立会《おたちあい》になった事でありました。
[#地から1字上げ]大正十(一九二一)年四月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年9月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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