雪靈續記
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)機會《きくわい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|夜《や》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》る

/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)見《み》る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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        一

 機會《きくわい》がおのづから來《き》ました。
 今度《こんど》の旅《たび》は、一體《いつたい》はじめは、仲仙道線《なかせんだうせん》で故郷《こきやう》へ着《つ》いて、其處《そこ》で、一事《あるよう》を濟《すま》したあとを、姫路行《ひめぢゆき》の汽車《きしや》で東京《とうきやう》へ歸《かへ》らうとしたのでありました。――此《この》列車《れつしや》は、米原《まいばら》で一體分身《いつたいぶんしん》して、分《わか》れて東西《とうざい》へ馳《はし》ります。
 其《それ》が大雪《おほゆき》のために進行《しんかう》が續《つゞ》けられなくなつて、晩方《ばんがた》武生驛《たけふえき》(越前《ゑちぜん》)へ留《とま》つたのです。強《し》ひて一町場《ひとちやうば》ぐらゐは前進《ぜんしん》出來《でき》ない事《こと》はない。が、然《さ》うすると、深山《しんざん》の小驛《せうえき》ですから、旅舍《りよしや》にも食料《しよくれう》にも、乘客《じようかく》に對《たい》する設備《せつび》が不足《ふそく》で、危險《きけん》であるからとの事《こと》でありました。
 元來《ぐわんらい》――歸途《きと》に此《こ》の線《せん》をたよつて東海道《とうかいだう》へ大※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《おほまは》りをしようとしたのは、……實《じつ》は途中《とちう》で決心《けつしん》が出來《でき》たら、武生《たけふ》へ降《お》りて許《ゆる》されない事《こと》ながら、そこから虎杖《いたどり》の里《さと》に、もとの蔦屋《つたや》(旅館《りよくわん》)のお米《よね》さんを訪《たづ》ねようと言《い》ふ……見《み》る/\積《つも》る雪《ゆき》の中《なか》に、淡雪《あはゆき》の消《き》えるやうな、あだなのぞみがあつたのです。で其《そ》の望《のぞみ》を煽《あふ》るために、最《も》う福井《ふくゐ》あたりから酒《さけ》さへ飮《の》んだのでありますが、醉《よ》ひもしなければ、心《こゝろ》も定《きま》らないのでありました。
 唯《たゞ》一|夜《や》、徒《いたづ》らに、思出《おもひで》の武生《たけふ》の町《まち》に宿《やど》つても構《かま》はない。が、宿《やど》りつゝ、其處《そこ》に虎杖《いたどり》の里《さと》を彼方《かなた》に視《み》て、心《こゝろ》も足《あし》も運《はこ》べない時《とき》の儚《はかな》さには尚《な》ほ堪《た》へられまい、と思《おも》ひなやんで居《ゐ》ますうちに――
 汽車《きしや》は着《つ》きました。
 目《め》をつむつて、耳《みゝ》を壓《おさ》へて、發車《はつしや》を待《ま》つのが、三|分《ぷん》、五|分《ふん》、十|分《ぷん》十五|分《ふん》――やゝ三十|分《ぷん》過《す》ぎて、やがて、驛員《えきいん》に其《そ》の不通《ふつう》の通達《つうたつ》を聞《き》いた時《とき》は!
 雪《ゆき》が其《その》まゝの待女郎《まちぢよらう》に成《な》つて、手《て》を取《と》つて導《みちび》くやうで、まんじ巴《ともゑ》の中空《なかぞら》を渡《わた》る橋《はし》は、宛然《さながら》に玉《たま》の棧橋《かけはし》かと思《おも》はれました。
 人間《にんげん》は増長《ぞうちやう》します。――積雪《せきせつ》のために汽車《きしや》が留《とま》つて難儀《なんぎ》をすると言《い》へば――旅籠《はたご》は取《と》らないで、すぐにお米《よね》さんの許《もと》へ、然《さ》うだ、行《い》つて行《ゆ》けなさうな事《こと》はない、が、しかし……と、そんな事《こと》を思《おも》つて、早《は》や壁《かべ》も天井《てんじやう》も雪《ゆき》の空《そら》のやうに成《な》つた停車場《ステエシヨン》に、しばらく考《かんが》へて居《ゐ》ましたが、餘《あま》り不躾《ぶしつけ》だと己《おのれ》を制《せい》して、矢張《やつぱ》り一旦《いつたん》は宿《やど》に着《つ》く事《こと》にしましたのです。ですから、同列車《どうれつしや》の乘客《じようかく》の中《うち》で、停車場《ステエシヨン》を離《はな》れましたのは、多分《たぶん》私《わたし》が一番《いちばん》あとだつたらうと思《おも》ひます。
 大雪《おほゆき》です。
[#ここから3字下げ]
「雪《ゆき》やこんこ、
 霰《あられ》やこんこ。」
[#ここで字下げ終わり]
 大雪《おほゆき》です――が、停車場前《ステエシヨンまへ》の茶店《ちやみせ》では、まだ小兒《せうに》たちの、そんな聲《こゑ》が聞《きこ》えて居《ゐ》ました。其《そ》の時分《じぶん》は、山《やま》の根笹《ねざさ》を吹《ふ》くやうに、風《かぜ》もさら/\と鳴《な》りましたつけ。町《まち》へ入《はひ》るまでに日《ひ》もとつぷりと暮果《くれは》てますと、
[#ここから3字下げ]
「爺《ぢい》さイのウ婆《ばゞ》さイのウ、
 綿雪《わたゆき》小雪《こゆき》が降《ふ》るわいのウ、
 雨戸《あまど》も小窓《こまど》もしめさつし。」
[#ここで字下げ終わり]
 と寂《さび》しい侘《わび》しい唄《うた》の聲《こゑ》――雪《ゆき》も、小兒《こども》が爺婆《ぢいばあ》に化《ば》けました。――風《かぜ》も次第《しだい》に、ぐわう/\と樹《き》ながら山《やま》を搖《ゆす》りました。
 店屋《みせや》さへ最《も》う戸《と》が閉《しま》る。……旅籠屋《はたごや》も門《もん》を閉《とざ》しました。
 家名《いへな》も何《なに》も構《かま》はず、いま其家《そこ》も閉《し》めようとする一|軒《けん》の旅籠屋《はたごや》へ駈込《かけこ》みましたのですから、場所《ばしよ》は町《まち》の目貫《めぬき》の向《むき》へは遠《とほ》いけれど、鎭守《ちんじゆ》の方《はう》へは近《ちか》かつたのです。
 座敷《ざしき》は二階《にかい》で、だゞつ廣《ぴろ》い、人氣《にんき》の少《すく》ないさみしい家《いへ》で、夕餉《ゆふげ》もさびしうございました。
 若狹鰈《わかさがれひ》――大《だい》すきですが、其《それ》が附木《つけぎ》のやうに凍《こほ》つて居《ゐ》ます――白子魚乾《しらすぼし》、切干大根《きりぼしだいこ》の酢《す》、椀《わん》はまた白子魚乾《しらすぼし》に、とろゝ昆布《こぶ》の吸《すひ》もの――しかし、何《なん》となく可懷《なつかし》くつて涙《なみだ》ぐまるゝやうでした、何故《なぜ》ですか。……
 酒《さけ》も呼《よ》んだが醉《よ》ひません。むかしの事《こと》を考《かんが》へると、病苦《びやうく》を救《すく》はれたお米《よね》さんに對《たい》して、生意氣《なまいき》らしく恥《はづ》かしい。
 兩手《りやうて》を炬燵《こたつ》にさして、俯向《うつむ》いて居《ゐ》ました、濡《ぬ》れるやうに涙《なみだ》が出《で》ます。
 さつと言《い》ふ吹雪《ふゞき》であります。さつと吹《ふ》くあとを、ぐわうーと鳴《な》る。……次第《しだい》に家《いへ》ごと搖《ゆす》るほどに成《な》りましたのに、何《なん》と言《い》ふ寂寞《さびしさ》だか、あの、ひつそりと障子《しやうじ》の鳴《な》る音《おと》。カタ/\カタ、白《しろ》い魔《ま》が忍《しの》んで來《く》る、雪入道《ゆきにふだう》が透見《すきみ》する。カタ/\/\カタ、さーツ、さーツ、ぐわう/\と吹《ふ》くなかに――見《み》る/\うちに障子《しやうじ》の棧《さん》がパツ/\と白《しろ》く成《な》ります、雨戸《あまど》の隙《すき》へ鳥《とり》の嘴程《くちばしほど》吹込《ふきこ》む雪《ゆき》です。
「大雪《おほゆき》の降《ふ》る夜《よ》など、町《まち》の路《みち》が絶《た》えますと、三日《みつか》も四日《よつか》も私《わたし》一人《ひとり》――」
 三|年以前《ねんいぜん》に逢《あ》つた時《とき》、……お米《よね》さんが言《い》つたのです。
    ……………………
「路《みち》の絶《た》える。大雪《おほゆき》の夜《よ》。」
 お米《よね》さんが、あの虎杖《いたどり》の里《さと》の、此《こ》の吹雪《ふゞき》に……
「……唯《たゞ》一人《ひとり》。」――
 私《わたし》は決然《けつぜん》として、身《み》ごしらへをしたのであります。
「電報《でんぱう》を――」
 と言《い》つて、旅宿《りよしゆく》を出《で》ました。
 實《じつ》はなくなりました父《ちゝ》が、其《そ》の危篤《きとく》の時《とき》、東京《とうきやう》から歸《かへ》りますのに、(タダイマココマデキマシタ)と此《こ》の町《まち》から發信《はつしん》した……偶《ふ》とそれを口實《こうじつ》に――時間《じかん》は遲《おそ》くはありませんが、目口《めくち》もあかない、此《こ》の吹雪《ふゞき》に、何《なん》と言《い》つて外《そと》へ出《で》ようと、放火《つけび》か強盜《がうたう》、人殺《ひとごろし》に疑《うたが》はれはしまいかと危《あやぶ》むまでに、さんざん思《おも》ひ惑《まど》つたあとです。
 ころ柿《がき》のやうな髮《かみ》を結《ゆ》つた霜《しも》げた女中《ぢよちう》が、雜炊《ざふすゐ》でもするのでせう――土間《どま》で大釜《おほがま》の下《した》を焚《た》いて居《ゐ》ました。番頭《ばんとう》は帳場《ちやうば》に青《あを》い顏《かほ》をして居《ゐ》ました。が、無論《むろん》、自分《じぶん》たちが其《そ》の使《つかひ》に出《で》ようとは怪我《けが》にも言《い》はないのでありました。

        二

「何《ど》う成《な》るのだらう……とにかくこれは尋常事《たゞごと》ぢやない。」
 私《わたし》は幾度《いくたび》となく雪《ゆき》に轉《ころ》び、風《かぜ》に倒《たふ》れながら思《おも》つたのであります。
「天狗《てんぐ》の爲《な》す業《わざ》だ、――魔《ま》の業《わざ》だ。」
 何《なに》しろ可恐《おそろし》い大《おほき》な手《て》が、白《しろ》い指紋《しもん》の大渦《おほうづ》を卷《ま》いて居《ゐ》るのだと思《おも》ひました。
 いのちとりの吹雪《ふゞき》の中《なか》に――
 最後《さいご》に倒《たふ》れたのは一《ひと》つの雪《ゆき》の丘《をか》です。――然《さ》うは言《い》つても、小高《こだか》い場所《ばしよ》に雪《ゆき》が積《つも》つたのではありません、粉雪《こゆき》の吹溜《ふきだま》りがこんもりと積《つも》つたのを、哄《どつ》と吹《ふ》く風《かぜ》が根《ね》こそぎに其《そ》の吹《ふ》く方《はう》へ吹飛《ふきと》ばして運《はこ》ぶのであります。一《ひと》つ二《ふた》つの數《すう》ではない。波《なみ》の重《かさな》るやうな、幾《いく》つも幾《いく》つも、颯《さつ》と吹《ふ》いて、むら/\と位置《ゐち》を亂《みだ》して、八方《はつぱう》へ高《たか》く成《な》ります。
 私《わたし》は最《も》う、それまでに、幾度《いくたび》も其《そ》の渦《うづ》にくる/\と卷《ま》かれて、大《おほき》な水《みづ》の輪《わ》に、孑孑蟲《ぼうふらむし》が引《ひつ》くりかへるやうな形《かたち》で、取《と》つては投《な》げられ、掴《つか》んでは倒《たふ》され、捲《ま》き上《あ》げては倒《たふ》されました。
 私《わたし》は――白晝《はくちう》、北海《ほくかい》の荒波《あらなみ》の上《うへ》で起《おこ》る處《ところ》の此《こ》の吹雪《ふゞき》の渦《うづ》を見《み》た事《こと》があります。――一度《いちど》は、たとへば、敦賀灣《つるがわん》でありました――繪《ゑ》にかいた雨龍《あまりよう》のぐる/
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