\と輪《わ》を卷《ま》いて、一條《ひとすぢ》、ゆつたりと尾《を》を下《した》に垂《た》れたやうな形《かたち》のものが、降《ふ》りしきり、吹煽《ふきあふ》つて空中《くうちう》に薄黒《うすぐろ》い列《れつ》を造《つく》ります。
見《み》て居《ゐ》るうちに、其《そ》の一《ひと》つが、ぱつと消《き》えるかと思《おも》ふと、忽《たちま》ち、ぽつと、續《つゞ》いて同《おな》じ形《かたち》が顯《あらは》れます。消《き》えるのではない、幽《かすか》に見《み》える若狹《わかさ》の岬《みさき》へ矢《や》の如《ごと》く白《しろ》く成《な》つて飛《と》ぶのです。一《ひと》つ一《ひと》つが皆《み》な然《さ》うでした。――吹雪《ふゞき》の渦《うづ》は湧《わ》いては飛《と》び、湧《わ》いては飛《と》びます。
私《わたし》の耳《みゝ》を打《う》ち、鼻《はな》を捩《ね》ぢつゝ、いま、其《そ》の渦《うづ》が乘《の》つては飛《と》び、掠《かす》めては走《はし》るんです。
大波《おほなみ》に漂《たゞよ》ふ小舟《こぶね》は、宙天《ちうてん》に搖上《ゆすりあげ》らるゝ時《とき》は、唯《たゞ》波《なみ》ばかり、白《しろ》き黒《くろ》き雲《くも》の一片《いつぺん》をも見《み》ず、奈落《ならく》に揉落《もみおと》さるゝ時《とき》は、海底《かいてい》の巖《いは》の根《ね》なる藻《も》の、紅《あか》き碧《あを》きをさへ見《み》ると言《い》ひます。
風《かぜ》の一息《ひといき》死《し》ぬ、眞空《しんくう》の一瞬時《いつしゆんじ》には、町《まち》も、屋根《やね》も、軒下《のきした》の流《ながれ》も、其《そ》の屋根《やね》を壓《あつ》して果《はて》しなく十重《とへ》二十重《はたへ》に高《たか》く聳《た》ち、遙《はるか》に連《つらな》る雪《ゆき》の山脈《さんみやく》も、旅籠《はたご》の炬燵《こたつ》も、釜《かま》も、釜《かま》の下《した》なる火《ひ》も、果《はて》は虎杖《いたどり》の家《いへ》、お米《よね》さんの薄色《うすいろ》の袖《そで》、紫陽花《あぢさゐ》、紫《むらさき》の花《はな》も……お米《よね》さんの素足《すあし》さへ、きつぱりと見《み》えました。が、脈《みやく》を打《う》つて吹雪《ふゞき》が來《く》ると、呼吸《こきふ》は咽《むせ》んで、目《め》は盲《めしひ》のやうに成《な》るのでありました。
最早《もはや》、最後《さいご》かと思《おも》ふ時《とき》に、鎭守《ちんじゆ》の社《やしろ》が目《め》の前《まへ》にあることに心着《こゝろづ》いたのであります。同時《どうじ》に峰《みね》の尖《とが》つたやうな眞白《まつしろ》な杉《すぎ》の大木《たいぼく》を見《み》ました。
雪難之碑《せつなんのひ》のある處《ところ》――
天狗《てんぐ》――魔《ま》の手《て》など意識《いしき》しましたのは、其《そ》の樹《き》のせゐかも知《し》れません。たゞし此《これ》に目標《めじるし》が出來《でき》たためか、背《せ》に根《ね》が生《は》えたやうに成《な》つて、倒《たふ》れて居《ゐ》る雪《ゆき》の丘《をか》の飛移《とびうつ》るやうな思《おも》ひはなくなりました。
洵《まこと》は、兩側《りやうがは》にまだ家《いへ》のありました頃《ころ》は、――中《なか》に旅籠《はたご》も交《まじ》つて居《ゐ》ます――一面識《いちめんしき》はなくつても、同《おな》じ汽車《きしや》に乘《の》つた人《ひと》たちが、疎《まばら》にも、それ/″\の二階《にかい》に籠《こも》つて居《ゐ》るらしい、其《そ》れこそ親友《しんいう》が附添《つきそ》つて居《ゐ》るやうに、氣丈夫《きぢやうぶ》に頼母《たのも》しかつたのであります。尤《もつと》も其《それ》を心《こゝろ》あてに、頼《たの》む。――助《たす》けて――助《たす》けて――と幾度《いくたび》か呼《よ》びました。けれども、窓《まど》一《ひと》つ、ちらりと燈火《ともしび》の影《かげ》の漏《も》れて答《こた》ふる光《ひかり》もありませんでした。聞《きこ》える筈《はず》もありますまい。
いまは、唯《たゞ》お米《よね》さんと、間《あひだ》に千尺《せんじやく》の雪《ゆき》を隔《へだ》つるのみで、一人《ひとり》死《し》を待《ま》つ、……寧《むし》ろ目《め》を瞑《ねむ》るばかりに成《な》りました。
時《とき》に不思議《ふしぎ》なものを見《み》ました――底《そこひ》なき雪《ゆき》の大空《おほぞら》の、尚《な》ほ其《そ》の上《うへ》を、プスリと鑿《のみ》で穿《うが》つて其《そ》の穴《あな》から落《お》ちこぼれる……大《おほ》きさは然《さ》うです……蝋燭《らふそく》の灯《ひ》の少《すこ》し大《おほき》いほどな眞蒼《まつさを》な光《ひかり》が、ちら/\と雪《ゆき》を染《そ》め、染《そ》めて、ちら/\と染《そ》めながら、ツツと輝《かゞや》いて、其《そ》の古杉《ふるすぎ》の梢《こずゑ》に來《き》て留《とま》りました。其《そ》の青《あを》い火《ひ》は、しかし私《わたし》の魂《たましひ》が最《も》う藻脱《もぬ》けて、虚空《こくう》へ飛《と》んで、倒《さかさま》に下《した》の亡骸《なきがら》を覗《のぞ》いたのかも知《し》れません。
が、其《そ》の影《かげ》が映《さ》すと、半《なか》ば埋《うも》れた私《わたし》の身體《からだ》は、ぱつと紫陽花《あぢさゐ》に包《つゝ》まれたやうに、青《あを》く、藍《あゐ》に、群青《ぐんじやう》に成《な》りました。
此《こ》の山《やま》の上《うへ》なる峠《たうげ》の茶屋《ちやや》を思《おも》ひ出《だ》す――極暑《ごくしよ》、病氣《びやうき》のため、俥《くるま》で越《こ》えて、故郷《こきやう》へ歸《かへ》る道《みち》すがら、其《そ》の茶屋《ちやや》で休《やす》んだ時《とき》の事《こと》です。門《もん》も背戸《せど》も紫陽花《あぢさゐ》で包《つゝ》まれて居《ゐ》ました。――私《わたし》の顏《かほ》の色《いろ》も同《おな》じだつたらうと思《おも》ふ、手《て》も青《あを》い。
何《なに》より、嫌《いや》な、可恐《おそろし》い雷《かみなり》が鳴《な》つたのです。たゞさへ破《わ》れようとする心臟《しんぞう》に、動悸《どうき》は、破障子《やれしやうじ》の煽《あふ》るやうで、震《ふる》へる手《て》に飮《の》む水《みづ》の、水《みづ》より前《さき》に無數《むすう》の蚊《か》が、目《め》、口《くち》、鼻《はな》へ飛込《とびこ》んだのであります。
其《そ》の時《とき》の苦《くる》しさ。――今《いま》も。
三
白《しろ》い梢《こずゑ》の青《あを》い火《ひ》は、また中空《なかぞら》の渦《うづ》を映《うつ》し出《だ》す――とぐろを卷《ま》き、尾《を》を垂《た》れて、海原《うなばら》のそれと同《おな》じです。いや、それよりも、峠《たうげ》で屋根《やね》に近《ちか》かつた、あの可恐《おそろし》い雲《くも》の峰《みね》に宛然《そつくり》であります。
此《こ》の上《うへ》、雷《かみなり》。
大雷《おほかみなり》は雪國《ゆきぐに》の、こんな時《とき》に起《おこ》ります。
死力《しりよく》を籠《こ》めて、起上《おきあが》らうとすると、其《そ》の渦《うづ》が、風《かぜ》で、ぐわうと卷《ま》いて、捲《ま》きながら亂《みだ》るゝと見《み》れば、計知《はかりし》られぬ高《たか》さから颯《さつ》と大瀧《おほだき》を搖落《ゆりおと》すやうに、泡沫《あわ》とも、しぶきとも、粉《こな》とも、灰《はひ》とも、針《はり》とも分《わ》かず、降埋《ふりうづ》める。
「あつ。」
私《わたし》は又《また》倒《たふ》れました。
怪火《あやしび》に映《うつ》る、其《そ》の大瀧《おほだき》の雪《ゆき》は、目《め》の前《まへ》なる、ヅツンと重《おも》い、大《おほき》な山《やま》の頂《いたゞき》から一雪崩《ひとなだ》れに落《お》ちて來《く》るやうにも見《み》えました。
引挫《ひつし》がれた。
苦痛《くつう》の顏《かほ》の、醜《みにく》さを隱《かく》さうと、裏《うら》も表《おもて》も同《おな》じ雪《ゆき》の、厚《あつ》く、重《おも》い、外套《ぐわいたう》の袖《そで》を被《かぶ》ると、また青《あを》い火《ひ》の影《かげ》に、紫陽花《あぢさゐ》の花《はな》に包《つゝ》まれますやうで、且《か》つ白羽二重《しろはぶたへ》の裏《うら》に薄萌黄《うすもえぎ》がすツと透《とほ》るやうでした。
ウオヽヽヽ!
俄然《がぜん》として耳《みゝ》を噛《か》んだのは、凄《すご》く可恐《おそろし》い、且《か》つ力《ちから》ある犬《いぬ》の聲《こゑ》でありました。
ウオヽヽヽ!
虎《とら》の嘯《うそぶ》くとよりは、龍《りう》の吟《ぎん》ずるが如《ごと》き、凄烈《せいれつ》悲壯《ひそう》な聲《こゑ》であります。
ウオヽヽヽ!
三聲《みこゑ》を續《つゞ》けて鳴《な》いたと思《おも》ふと……雪《ゆき》をかついだ、太《ふと》く逞《たくま》しい、しかし痩《や》せた、一頭《いつとう》の和犬《わけん》、むく犬《いぬ》の、耳《みゝ》の青竹《あをだけ》をそいだやうに立《た》つたのが、吹雪《ふゞき》の瀧《たき》を、上《うへ》の峰《みね》から、一直線《いつちよくせん》に飛下《とびお》りた如《ごと》く思《おも》はれます。忽《たちま》ち私《わたし》の傍《そば》を近々《ちか/″\》と横《よこ》ぎつて、左右《さいう》に雪《ゆき》の白泡《しらあわ》を、ざつと蹴立《けた》てて、恰《あたか》も水雷艇《すゐらいてい》の荒浪《あらなみ》を切《き》るが如《ごと》く猛然《まうぜん》として進《すゝ》みます。
あと、ものの一町《いつちやう》ばかりは、眞白《まつしろ》な一條《いちでう》の路《みち》が開《ひら》けました。――雪《ゆき》の渦《うづ》が十《と》ヲばかりぐる/\と續《つゞ》いて行《ゆ》く。……
此《これ》を反對《はんたい》にすると、虎杖《いたどり》の方《はう》へ行《ゆ》くのであります。
犬《いぬ》の其《そ》の進《すゝ》む方《はう》は、まるで違《ちが》つた道《みち》でありました。が、私《わたし》は夢中《むちう》で、其《そ》のあとに續《つゞ》いたのであります。
路《みち》は一面《いちめん》、渺々《べう/\》と白《しろ》い野原《のはら》に成《な》りました。
が、大犬《おほいぬ》の勢《いきほひ》は衰《おとろ》へません。――勿論《もちろん》、行《ゆ》くあとに/\道《みち》が開《ひら》けます。渦《うづ》が續《つゞ》いて行《ゆ》く……
野《の》の中空《なかぞら》を、雪《ゆき》の翼《つばさ》を縫《ぬ》つて、あの青《あを》い火《ひ》が、蜿々《うね/\》と螢《ほたる》のやうに飛《と》んで來《き》ました。
眞正面《まつしやうめん》に、凹字形《あふじけい》の大《おほき》な建《たて》ものが、眞白《まつしろ》な大軍艦《だいぐんかん》のやうに朦朧《もうろう》として顯《あらは》れました。と見《み》ると、怪《あや》し火《び》は、何《なん》と、ツツツと尾《を》を曳《ひ》きつゝ。先《さき》へ斜《なゝめ》に飛《と》んで、其《そ》の大屋根《おほやね》の高《たか》い棟《むね》なる避雷針《ひらいしん》の尖端《とつたん》に、ぱつと留《とま》つて、ちら/\と青《あを》く輝《かゞや》きます。
ウオヽヽヽヽ
鐵《てつ》づくりの門《もん》の柱《はしら》の、やがて平地《へいち》と同《おな》じに埋《うづ》まつた眞中《まんなか》を、犬《いぬ》は山《やま》を乘《の》るやうに入《はひ》ります。私《わたし》は坂《さか》を越《こ》すやうに續《つゞ》きました。
ドンと鳴《な》つて、犬《いぬ》の頭突《づつ》きに、扉《とびら》が開《あ》いた。
餘《あま》りの嬉《うれ》しさに、雪《ゆき》に一度《いちど》手《て》を支《つか》へて、鎭守《ちんじゆ》の方《はう》を遙拜《えうはい》しつゝ、建《たて》ものの、戸《と》を入《はひ》りました。
學校《がくかう》――中學校《ちうがくかう》です。
唯《ト》、犬《いぬ》は廊下《ら
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