つあると、見《み》て來《き》たやうな噂《うはさ》をしました。何故《なぜ》か、――地方《ゐなか》は分《わ》けて結婚期《けつこんき》が早《はや》いのに――二十六七まで縁《えん》に着《つ》かないで居《ゐ》たからです。
(しかし、……やがて知事《ちじ》の妾《おもひもの》に成《な》つた事《こと》は前《まへ》に一寸《ちよつと》申《まを》しました。)
私《わたし》はよく知《し》つて居《ゐ》ます――六本指《ろつぽんゆび》なぞと、氣《け》もない事《こと》です。確《たしか》に見《み》ました。しかも其《そ》の雪《ゆき》なす指《ゆび》は、摩耶夫人《まやぶにん》が召《め》す白《しろ》い細《ほそ》い花《はな》の手袋《てぶくろ》のやうに、正《まさ》に五瓣《ごべん》で、其《それ》が九死一生《きうしいつしやう》だつた私《わたし》の額《ひたひ》に密《そつ》と乘《の》り、輕《かる》く胸《むね》に掛《かゝ》つたのを、運命《うんめい》の星《ほし》を算《かぞ》へる如《ごと》く熟《じつ》と視《み》たのでありますから。――
また其《そ》の手《て》で、硝子杯《コツプ》の白雪《しらゆき》に、鷄卵《たまご》の蛋黄《きみ》を溶《と》かしたのを、甘露《かんろ》を灌《そゝ》ぐやうに飮《の》まされました。
ために私《わたし》は蘇返《よみがへ》りました。
「冷水《おひや》を下《くだ》さい。」
最《も》う、それが末期《まつご》だと思《おも》つて、水《みづ》を飮《の》んだ時《とき》だつたのです。
脚氣《かつけ》を煩《わづら》つて、衝心《しようしん》をしかけて居《ゐ》たのです。其《そ》のために東京《とうきやう》から故郷《くに》に歸《かへ》る途中《とちう》だつたのでありますが、汚《よご》れくさつた白絣《しろがすり》を一|枚《まい》きて、頭陀袋《づだぶくろ》のやうな革鞄《かばん》一《ひと》つ掛《か》けたのを、玄關《げんくわん》さきで斷《ことわ》られる處《ところ》を、泊《と》めてくれたのも、螢《ほたる》と紫陽花《あぢさゐ》が見透《みとほ》しの背戸《せど》に涼《すゞ》んで居《ゐ》た、其《そ》のお米《よね》さんの振向《ふりむ》いた瞳《め》の情《なさけ》だつたのです。
水《みづ》と言《い》へば、せい/″\米《こめ》の磨汁《とぎしる》でもくれさうな處《ところ》を、白雪《しらゆき》に蛋黄《きみ》の情《なさけ》。――萌黄《もえぎ》の蚊帳《かや》、紅《べに》の麻《あさ》、……蚊《か》の酷《ひど》い處《ところ》ですが、お米《よね》さんの出入《ではひ》りには、はら/\と螢《ほたる》が添《そ》つて、手《て》を映《うつ》し、指環《ゆびわ》を映《うつ》し、胸《むね》の乳房《ちぶさ》を透《すか》して、浴衣《ゆかた》の染《そめ》の秋草《あきぐさ》は、女郎花《をみなへし》を黄《き》に、萩《はぎ》を紫《むらさき》に、色《いろ》あるまでに、蚊帳《かや》へ影《かげ》を宿《やど》しました。
「まあ、汗《あせ》びつしより。」
と汚《きたな》い病苦《びやうく》の冷汗《ひやあせ》に……そよ/\と風《かぜ》を惠《めぐ》まれた、淺葱色《あさぎいろ》の水團扇《みづうちは》に、幽《かすか》に月《つき》が映《さ》しました。……
大恩《だいおん》と申《まを》すは此《これ》なのです。――
おなじ年《とし》、冬《ふゆ》のはじめ、霜《しも》に緋葉《もみぢ》の散《ち》る道《みち》を、爽《さわやか》に故郷《こきやう》から引返《ひつかへ》して、再《ふたゝ》び上京《じやうきやう》したのでありますが、福井《ふくゐ》までには及《およ》びません、私《わたし》の故郷《こきやう》からは其《それ》から七|里《り》さきの、丸岡《まるをか》の建場《たてば》に俥《くるま》が休《やす》んだ時《とき》立合《たちあは》せた上下《じやうげ》の旅客《りよかく》の口々《くち/″\》から、もうお米《よね》さんの風説《うはさ》を聞《き》きました。
知事《ちじ》の妾《おもひもの》と成《な》つて、家《いへ》を出《で》たのは、其《そ》の秋《あき》だつたのでありました。
こゝはお察《さつ》しを願《ねが》ひます。――心易《こゝろやす》くは禮手紙《れいてがみ》、たゞ音信《おとづれ》さへ出來《でき》ますまい。
十六七|年《ねん》を過《す》ぎました。――唯今《たゞいま》の鯖江《さばえ》、鯖波《さばなみ》、今庄《いましやう》の驛《えき》が、例《れい》の音《おと》に聞《きこ》えた、中《なか》の河内《かはち》、木《き》の芽峠《めたうげ》、湯《ゆ》の尾峠《をたうげ》を、前後左右《ぜんごさいう》に、高《たか》く深《ふか》く貫《つらぬ》くのでありまして、汽車《きしや》は雲《くも》の上《うへ》を馳《はし》ります。
間《あひ》の宿《しゆく》で、世事《せじ》の用《よう》は聊《いさゝ》かもなかつたのでありますが、
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