可懷《なつかしさ》の餘《あま》り、途中《とちう》で武生《たけふ》へ立寄《たちよ》りました。
 内證《ないしよう》で……何《なん》となく顏《かほ》を見《み》られますやうで、ですから内證《ないしよう》で、其《そ》の蔦屋《つたや》へ參《まゐ》りました。
 皐月《さつき》上旬《じやうじゆん》でありました。

        三

 門《かど》、背戸《せど》の清《きよ》き流《ながれ》、軒《のき》に高《たか》き二本柳《ふたもとやなぎ》、――其《そ》の青柳《あをやぎ》の葉《は》の繁茂《しげり》――こゝに彳《たゝず》み、あの背戸《せど》に團扇《うちは》を持《も》つた、其《そ》の姿《すがた》が思《おも》はれます。それは昔《むかし》のまゝだつたが、一棟《ひとむね》、西洋館《せいやうくわん》が別《べつ》に立《た》ち、帳場《ちやうば》も卓子《テエブル》を置《お》いた受附《うけつけ》に成《な》つて、蔦屋《つたや》の樣子《やうす》はかはつて居《ゐ》ました。
 代替《だいがは》りに成《な》つたのです。――
 少《すこ》しばかり、女中《ぢよちう》に心《こゝろ》づけも出來《でき》ましたので、それとなく、お米《よね》さんの消息《せうそく》を聞《き》きますと、蔦屋《つたや》も蔦龍館《てうりうくわん》と成《な》つた發展《はつてん》で、持《もち》の此《こ》の女中《ぢよちう》などは、京《きやう》の津《つ》から來《き》て居《ゐ》るのださうで、少《すこ》しも恩人《おんじん》の事《こと》を知《し》りません。
 番頭《ばんとう》を呼《よ》んでもらつて訊《たづ》ねますと、――勿論《もちろん》其《そ》の頃《ころ》の男《をとこ》ではなかつたが――此《これ》はよく知《し》つて居《ゐ》ました。
 蔦屋《つたや》は、若主人《わかしゆじん》――お米《よね》さんの兄《あに》――が相場《さうば》にかゝつて退轉《たいてん》をしたさうです。お米《よね》さんにまけない美人《びじん》をと言《い》つて、若主人《わかしゆじん》は、祇園《ぎをん》の藝妓《げいしや》をひかして女房《にようばう》にして居《ゐ》たさうでありますが、それも亡《な》くなりました。
 知事《ちじ》――其《そ》の三|年前《ねんぜん》に亡《な》く成《な》つた事《こと》は、私《わたし》も新聞《しんぶん》で知《し》つて居《ゐ》たのです――其《そ》のいくらか手當《てあて》が殘《のこ》つたのだらうと思《おも》はれます。當時《たうじ》は町《まち》を離《はな》れた虎杖《いたどり》の里《さと》に、兄妹《きやうだい》がくらして、若主人《わかしゆじん》の方《はう》は、町中《まちなか》の或會社《あるくわいしや》へ勤《つと》めて居《ゐ》ると、此《こ》の由《よし》、番頭《ばんとう》が話《はな》してくれました。一昨年《いつさくねん》の事《こと》なのです。
 ――いま私《わたし》は、可恐《おそろし》い吹雪《ふゞき》の中《なか》を、其處《そこ》へ志《こゝろざ》して居《ゐ》るのであります――
 が、さて、一昨年《いつさくねん》の其《そ》の時《とき》は、翌日《よくじつ》、半日《はんにち》、いや、午後《ごご》三|時頃《じごろ》まで、用《よう》もないのに、女中《ぢよちう》たちの蔭《かげ》で怪《あやし》む氣勢《けはひ》のするのが思《おも》ひ取《と》られるまで、腕組《うでぐみ》が、肘枕《ひぢまくら》で、やがて、夜具《やぐ》を引被《ひつかぶ》つてまで且《か》つ思《おも》ひ、且《か》つ惱《なや》み、幾度《いくたび》か逡巡《しゆんじゆん》した最後《さいご》に、旅館《りよくわん》をふら/\と成《な》つて、たうとう恩人《おんじん》を訪《たづ》ねに出《で》ました。
 故《わざ》と途中《とちう》、餘所《よそ》で聞《き》いて、虎杖村《いたどりむら》に憧憬《あこが》れ行《ゆ》く。……
 道《みち》は鎭守《ちんじゆ》がめあてでした。
 白《しろ》い、靜《しづか》な、曇《くも》つた日《ひ》に、山吹《やまぶき》も色《いろ》が淺《あさ》い、小流《こながれ》に、苔蒸《こけむ》した石《いし》の橋《はし》が架《かゝ》つて、其《そ》の奧《おく》に大《おほ》きくはありませんが深《ふか》く神寂《かんさ》びた社《やしろ》があつて、大木《たいぼく》の杉《すぎ》がすら/\と杉《すぎ》なりに並《なら》んで居《ゐ》ます。入口《いりぐち》の石《いし》の鳥居《とりゐ》の左《ひだり》に、就中《とりわけ》暗《くら》く聳《そび》えた杉《すぎ》の下《もと》に、形《かたち》はつい通《とほ》りでありますが、雪難之碑《せつなんのひ》と刻《きざ》んだ、一|基《き》の石碑《せきひ》が見《み》えました。
 雪《ゆき》の難《なん》――荷擔夫《にかつぎふ》、郵便配達《いうびんはいたつ》の人《ひと》たち、其《そ》の昔《むかし》は數多《あまた》の旅客《りよかく》
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