も――此《これ》からさしかゝつて越《こ》えようとする峠路《たうげみち》で、屡々《しば/\》命《いのち》を殞《おと》したのでありますから、いづれ其《そ》の靈《れい》を祭《まつ》つたのであらう、と大空《おほぞら》の雲《くも》、重《かさな》る山《やま》、續《つゞ》く巓《いたゞき》、聳《そび》ゆる峰《みね》を見《み》るにつけて、凄《すさま》じき大濤《おほなみ》の雪《ゆき》の風情《ふぜい》を思《おも》ひながら、旅《たび》の心《こゝろ》も身《み》に沁《し》みて通過《とほりす》ぎました。
 畷道《なはてみち》少《すこ》しばかり、菜種《なたね》の畦《あぜ》を入《はひ》つた處《ところ》に、志《こゝろざ》す庵《いほり》が見《み》えました。侘《わび》しい一軒家《いつけんや》の平屋《ひらや》ですが、門《かど》のかゝりに何《なん》となく、むかしの状《さま》を偲《しの》ばせます、萱葺《かやぶき》の屋根《やね》ではありません。
 伸上《のびあが》る背戸《せど》に、柳《やなぎ》が霞《かす》んで、こゝにも細流《せゝらぎ》に山吹《やまぶき》の影《かげ》の映《うつ》るのが、繪《ゑ》に描《か》いた螢《ほたる》の光《ひかり》を幻《まぼろし》に見《み》るやうでありました。
 夢《ゆめ》にばかり、現《うつゝ》にばかり、十|幾年《いくねん》。
 不思議《ふしぎ》にこゝで逢《あ》ひました――面影《おもかげ》は、黒髮《くろかみ》に笄《かうがい》して、雪《ゆき》の裲襠《かいどり》した貴夫人《きふじん》のやうに遙《はるか》に思《おも》つたのとは全然《まるで》違《ちが》ひました。黒繻子《くろじゆす》の襟《えり》のかゝつた縞《しま》の小袖《こそで》に、些《ちつ》とすき切《ぎ》れのあるばかり、空色《そらいろ》の絹《きぬ》のおなじ襟《えり》のかゝつた筒袖《こひぐち》を、帶《おび》も見《み》えないくらゐ引合《ひきあは》せて、細《ほつそ》りと着《き》て居《ゐ》ました。
 其《そ》の姿《すがた》で手《て》をつきました。あゝ、うつくしい白《しろ》い指《ゆび》、結立《ゆひた》ての品《ひん》のいゝ圓髷《まるまげ》の、情《なさけ》らしい柔順《すなほ》な髱《たぼ》の耳朶《みゝたぶ》かけて、雪《ゆき》なす項《うなじ》が優《やさ》しく清《きよ》らかに俯向《うつむ》いたのです。
 生意氣《なまいき》に杖《ステツキ》を持《も》つて立《た》つて居《ゐ》る
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