雪の翼
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柏崎海軍少尉《かしはざきかいぐんせうゐ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|羽《は》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々
/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つか/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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柏崎海軍少尉《かしはざきかいぐんせうゐ》の夫人《ふじん》に、民子《たみこ》といつて、一昨年《いつさくねん》故郷《ふるさと》なる、福井《ふくゐ》で結婚《けつこん》の式《しき》をあげて、佐世保《させぼ》に移住《うつりす》んだのが、今度《こんど》少尉《せうゐ》が出征《しゆつせい》に就《つ》き、親里《おやざと》の福井《ふくゐ》に歸《かへ》り、神佛《しんぶつ》を祈《いの》り、影膳《かげぜん》据《す》ゑつつ座《ざ》にある如《ごと》く、家《いへ》を守《まも》つて居《ゐ》るのがあつた。
旅順《りよじゆん》の吉報《きつぱう》傳《つた》はるとともに幾干《いくばく》の猛將《まうしやう》勇士《ゆうし》、或《あるひ》は士卒《しそつ》――或《あるひ》は傷《きず》つき骨《ほね》も皮《かは》も散々《ちり/″\》に、影《かげ》も留《とゞ》めぬさへある中《なか》に夫《をつと》は天晴《あつぱれ》の功名《こうみやう》して、唯《たゞ》纔《わづか》に左《ひだり》の手《て》に微傷《かすりきず》を受《う》けたばかりと聞《き》いた時《とき》、且《か》つ其《そ》の乘組《のりく》んだ艦《ふね》の帆柱《ほばしら》に、夕陽《せきやう》の光《ひかり》を浴《あ》びて、一|羽《は》雪《ゆき》の如《ごと》き鷹《たか》の來《きた》り留《とま》つた報《はう》を受《う》け取《と》つた時《とき》、連添《つれそ》ふ身《み》の民子《たみこ》は如何《いか》に感《かん》じたらう。あはれ新婚《しんこん》の式《しき》を擧《あ》げて、一年《ひとゝせ》の衾《ふすま》暖《あたゝ》かならず、戰地《せんち》に向《むか》つて出立《いでた》つた折《をり》には、忍《しの》んで泣《な》かなかつたのも、嬉涙《うれしなみだ》に暮《く》れたのであつた。
あゝ、其《そ》のよろこびの涙《なみだ》も、夜《よる》は片敷《かたし》いて帶《おび》も解《と》かぬ留守《るす》の袖《そで》に乾《かわ》きもあへず、飛報《ひはう》は鎭守府《ちんじゆふ》の病院《びやうゐん》より、一家《いつけ》の魂《たましひ》を消《け》しに來《き》た。
少尉《せうゐ》が病《や》んで、豫後《よご》不良《ふりやう》とのことである。
此《こ》の急信《きふしん》は××年《ねん》××月《ぐわつ》××日《にち》、午後《ごご》三|時《じ》に屆《とゞ》いたので、民子《たみこ》は蒼《あを》くなつて衝《つ》と立《た》つと、不斷着《ふだんぎ》に繻子《しゆす》の帶《おび》引緊《ひきし》めて、つか/\と玄關《げんくわん》へ。父親《ちゝおや》が佛壇《ぶつだん》に御明《みあかし》を點《てん》ずる間《ま》に、母親《はゝおや》は、財布《さいふ》の紐《ひも》を結《ゆは》へながら、駈《か》けて出《で》て之《これ》を懷中《ふところ》に入《い》れさせる、女中《ぢよちう》がシヨオルをきせかける、隣《となり》の女房《にようばう》が、急《いそ》いで腕車《くるま》を仕立《したて》に行《ゆ》く、とかうする内《うち》、お供《とも》に立《た》つべき與曾平《よそべい》といふ親仁《おやぢ》、身支度《みじたく》をするといふ始末《しまつ》。さて、取《と》るものも取《と》りあへず福井《ふくゐ》の市《まち》を出發《しゆつぱつ》した。これが鎭守府《ちんじゆふ》の病院《びやうゐん》に、夫《をつと》を見舞《みま》ふ首途《かどで》であつた。
冬《ふゆ》の日《ひ》の、山國《やまぐに》の、名《な》にしおふ越路《こしぢ》なり、其日《そのひ》は空《そら》も曇《くも》りたれば、漸《やうや》く町《まち》をはづれると、九頭龍川《くづりうがは》の川面《かはづら》に、早《は》や夕暮《ゆふぐれ》の色《いろ》を籠《こ》めて、暗《くら》くなりゆく水蒼《みづあを》く、早瀬《はやせ》亂《みだ》れて鳴《な》る音《おと》も、千々《ちゞ》に碎《くだ》けて立《た》つ波《なみ》も、雪《ゆき》や!其《そ》の雪《ゆき》の思《おも》ひ遣《や》らるゝ空模樣《そらもやう》。近江《あふみ》の國《くに》へ山越《やまごし》に、出《い》づるまでには、中《なか》の河内《かはち》、木《き》の芽峠《めたうげ》が、尤《もつと》も近《ちか》きは目《め》の前《まへ》に、春日野峠《かすがのたうげ》を控《ひか》へ
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