たれば、頂《いたゞき》の雲《くも》眉《まゆ》を蔽《おほ》うて、道《みち》のほど五|里《り》あまり、武生《たけふ》の宿《しゆく》に着《つ》いた頃《ころ》、日《ひ》はとつぷりと暮《く》れ果《は》てた。
 長旅《ながたび》は抱《かゝ》へたり、前《まへ》に峠《たうげ》を望《のぞ》んだれば、夜《よ》を籠《こ》めてなど思《おも》ひも寄《よ》らず、柳屋《やなぎや》といふに宿《やど》を取《と》る。
 路《みち》すがら手《て》も足《あし》も冷《ひ》え凍《こほ》り、火鉢《ひばち》の上《うへ》へ突伏《つゝぷ》しても、身《み》ぶるひやまぬ寒《さむ》さであつたが、
 枕《まくら》に就《つ》いて初夜《しよや》過《す》ぐる頃《ころ》ほひより、少《すこ》し氣候《きこう》がゆるんだと思《おも》ふと、凡《およ》そ手掌《てのひら》ほどあらうといふ、俗《ぞく》に牡丹《ぼたん》となづくる雪《ゆき》が、しと/\と果《はて》しもあらず降出《ふりだ》して、夜中頃《よなかごろ》には武生《たけふ》の町《まち》を笠《かさ》のやうに押被《おつかぶ》せた、御嶽《おんたけ》といふ一座《いちざ》の峰《みね》、根《ね》こそぎ一搖《ひとゆ》れ、搖《ゆ》れたかと思《おも》ふ氣勢《けはひ》がして、風《かぜ》さへ颯《さつ》と吹《ふ》き添《そ》つた。
 一《いち》の谷《たに》、二《に》の谷《たに》、三《さん》の谷《たに》、四《し》の谷《たに》かけて、山々《やま/\》峰々《みね/\》縱横《じうわう》に、荒《あ》れに荒《あ》るゝが手《て》に取《と》るやう、大波《おほなみ》の寄《よ》せては返《かへ》すに齊《ひと》しく、此《こ》の一夜《いちや》に北國空《ほくこくぞら》にあらゆる雪《ゆき》を、震《ふる》ひ落《おと》すこと、凄《すさ》まじい。
 民子《たみこ》は一炊《いつすゐ》の夢《ゆめ》も結《むす》ばず。あけ方《がた》に風《かぜ》は凪《な》いだ。
 昨夜《ゆうべ》雇《やと》つた腕車《くるま》が二|臺《だい》、雪《ゆき》の門《かど》を叩《たゝ》いたので、主從《しうじう》は、朝餉《あさげ》の支度《したく》も※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そこ/\》に、身《み》ごしらへして、戸外《おもて》に出《で》ると、東雲《しのゝめ》の色《いろ》とも分《わ》かず黄昏《たそがれ》の空《そら》とも見《み》えず、溟々《めい/\》濛々《もう/\》として、天地《てんち》唯《たゞ》一白《いつぱく》。
 不意《ふい》に積《つも》つた雪《ゆき》なれば、雪車《そり》と申《まを》しても間《ま》に合《あは》ず、ともかくもお車《くるま》を。帳場《ちやうば》から此處《こゝ》へ參《まゐ》る内《うち》も、此《こ》の通《とほ》りの大汗《おほあせ》と、四人《よつたり》の車夫《しやふ》は口《くち》を揃《そろ》へ、精一杯《せいいつぱい》、後押《あとおし》で、お供《とも》はいたして見《み》まするけれども、前途《さき》のお請合《うけあひ》はいたされず。何《なに》はしかれ車《くるま》の齒《は》の埋《うづ》まりますまで、遣《や》るとしませう。其上《そのうへ》は、三|人《にん》がかり五|人《にん》がかり、三井寺《みゐでら》の鐘《かね》をかつぐ力《ちから》づくでは、とても一寸《いつすん》も動《うご》きはしませぬ。お約束《やくそく》なれば當《たう》柳屋《やなぎや》の顏立《かほだて》に參《まゐ》つたまで、と、しり込《ごみ》すること一方《ひとかた》ならず。唯《たゞ》急《いそ》ぎに急《いそ》がれて、こゝに心《こゝろ》なき主從《しうじう》よりも、御機嫌《ごきげん》ようと門《かど》に立《た》つて、一曳《ひとひき》ひけば降《ふ》る雪《ゆき》に、母衣《ほろ》の形《かたち》も早《は》や隱《かく》れて、殷々《いん/\》として沈《しづ》み行《ゆ》く客《きやく》を見送《みおく》る宿《やど》のものが、却《かへ》つて心細《こゝろぼそ》い限《かぎ》りであつた。
 酒代《さかて》は惜《をし》まぬ客人《きやくじん》なり、然《しか》も美人《びじん》を載《の》せたれば、屈竟《くつきやう》の壯佼《わかもの》勇《いさみ》をなし、曳々聲《えい/\ごゑ》を懸《か》け合《あ》はせ、畷《なはて》、畦道《あぜみち》、村《むら》の徑《みち》、揉《も》みに揉《も》んで、三|里《り》の路《みち》に八九|時間《じかん》、正午《しやうご》といふのに、峠《たうげ》の麓《ふもと》、春日野村《かすがのむら》に着《つ》いたので、先《ま》づ一|軒《けん》の茶店《ちやみせ》に休《やす》んで、一行《いつかう》は吻《ほつ》と呼吸《いき》。
 茶店《ちやみせ》のものも爐《ろ》を圍《かこ》んで、ぼんやりとして居《ゐ》るばかり。いふまでもなく極月《しはす》かけて三月《さんぐわつ》彼岸《ひがん》の雪《ゆき》どけまでは、毎年《まいねん》こんな中《なか
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