これは獵師《れふし》も憐《あはれ》んで、生命《いのち》を取《と》らず、稗《ひえ》、粟《あは》を與《あた》へて養《やしな》ふ習《ならひ》と、仔細《しさい》を聞《き》けば、所謂《いわゆる》窮鳥《きうてう》懷《ふところ》に入《い》つたるもの。
翌日《あくるひ》も降《ふ》り止《や》まず、民子《たみこ》は心《こゝろ》も心《こゝろ》ならねど、神佛《かみほとけ》とも思《おも》はるゝ老《おい》の言《ことば》に逆《さか》らはず、二日《ふつか》三日《みつか》は宿《やど》を重《かさ》ねた。
其夜《そのよ》の雁《かり》も立去《たちさ》らず、餌《ゑ》にかはれた飼鳥《かひどり》のやう、よくなつき、分《わ》けて民子《たみこ》に慕《した》ひ寄《よ》つて、膳《ぜん》の傍《かたはら》に羽《はね》を休《やす》めるやうになると、はじめに生命《いのち》がけ恐《おそろ》しく思《おも》ひしだけ、可愛《かはい》さは一入《ひとしほ》なり。つれ/″\には名《な》を呼《よ》んで、翼《つばさ》を撫《な》でもし、膝《ひざ》に抱《だ》きもし、頬《ほゝ》もあて、夜《よる》は衾《ふすま》に懷《ふところ》を開《ひら》いて、暖《あたゝか》い玉《たま》の乳房《ちぶさ》の間《あひだ》に嘴《はし》を置《お》かせて、すや/\と寐《ね》ることさへあつたが、一夜《あるよ》、凄《すさま》じき寒威《かんい》を覺《おぼ》えた。あけると凍《い》てて雪車《そり》が出《で》る、直《すぐ》に發足《ほつそく》。
老人夫婦《らうじんふうふ》に別《わかれ》を告《つ》げつつ、民子《たみこ》は雁《かり》にも殘惜《のこりを》しいまで不便《ふびん》であつたなごりを惜《をし》んだ。
神《かみ》の使《つかひ》であつたらう、この鳥《とり》がないと、民子《たみこ》は夫《をつと》にも逢《あ》へず、其《そ》の看護《みとり》も出來《でき》ず、且《か》つやがて大尉《たいゐ》に昇進《しようしん》した少尉《せうゐ》の榮《さかえ》を見《み》ることもならず、與曾平《よそべい》の喜顏《よろこびがほ》にも、再會《さいくわい》することが出來《でき》なかつたのである。
民子《たみこ》をのせて出《で》た雪車《そり》は、路《みち》を辷《すべ》つて、十三|谷《や》といふ難所《なんしよ》を、大切《たいせつ》な客《きやく》ばかりを千尋《ちひろ》の谷底《たにそこ》へ振《ふ》り落《おと》した、雪《ゆき》ゆゑ怪我《けが》はなかつたが、落込《おちこ》んだのは炭燒《すみやき》の小屋《こや》の中《なか》。
五助《ごすけ》。
權九郎《ごんくらう》。
といふ、兩名《りやうめい》の炭燒《すみやき》が、同一《おなじ》雪籠《ゆきごめ》に會《あ》つて封《ふう》じ込《こ》められたやうになり、二日《ふつか》三日《みつか》は貯蓄《たくはへ》もあつたが、四日目《よつかめ》から、粟《あは》一粒《ひとつぶ》も口《くち》にしないで、熊《くま》の如《ごと》き荒漢等《あらをのこら》、山狗《やまいぬ》かとばかり痩《や》せ衰《おとろ》へ、目《め》を光《ひか》らせて、舌《した》を噛《か》んで、背中合《せなかあは》せに倒《たふ》れたまゝ、唸《うめ》く聲《こゑ》さへ幽《かすか》な處《ところ》、何《なに》、人間《にんげん》なりとて容赦《ようしや》すべき。
帶《おび》を解《と》き、衣《きぬ》を剥《は》ぎ、板戸《いたど》の上《うへ》に縛《いまし》めた、其《そ》のありさまは、こゝに謂《い》ふまい。立處《たちどころ》其《そ》の手足《てあし》を炙《あぶ》るべく、炎々《えん/\》たる炭火《すみび》を熾《おこ》して、やがて、猛獸《まうじう》を拒《ふせ》ぐ用意《ようい》の、山刀《やまがたな》と斧《をの》を揮《ふる》つて、あはや、其《その》胸《むね》を開《ひら》かむとなしたる處《ところ》へ、神《かみ》の御手《みて》の翼《つばさ》を擴《ひろ》げて、其《その》膝《ひざ》、其《その》手《て》、其《その》肩《かた》、其《その》脛《はぎ》、狂《くる》ひまつはり、搦《から》まつて、民子《たみこ》の膚《はだ》を蔽《おほ》うたのは、鳥《とり》ながらも心《こゝろ》ありけむ、民子《たみこ》の雪車《そり》のあとを慕《した》うて、大空《おほぞら》を渡《わた》つて來《き》た雁《かり》であつた。
瞬《またゝ》く間《ま》に、雁《かり》は炭燒《すみやき》に屠《ほふ》られたが、民子《たみこ》は微傷《かすりきず》も受《う》けないで、完《まつた》き璧《たま》の泰《やす》らかに雪《ゆき》の膚《はだへ》は繩《なは》から拔《ぬ》けた。
渠等《かれら》は敢《あへ》て鬼《おに》ではない、食《じき》を得《え》たれば人心地《ひとごこち》になつて、恰《あたか》も可《よ》し、谷間《たにあひ》から、いたはつて、負《おぶ》つて世《よ》に出《で》た。
底本:「鏡花全集 卷六」岩
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