からだ》にこそ。
口々《くち/″\》に押宥《おしなだ》め、民子《たみこ》も切《せつ》に慰《なぐさ》めて、お前《まへ》の病氣《びやうき》を看護《みと》ると謂《い》つて此處《こゝ》に足《あし》は留《と》められぬ。棄《す》てゝ行《ゆ》くには忍《しの》びぬけれども、鎭守府《ちんじゆふ》の旦那樣《だんなさま》が、呼吸《いき》のある内《うち》一目《ひとめ》逢《あ》ひたい、私《わたし》の心《こゝろ》は察《さつ》しておくれ、とかういふ間《ま》も心《こゝろ》は急《せ》く、峠《たうげ》は前《まへ》に控《ひか》へて居《ゐ》るし、爺《ぢい》や!
もし奧樣《おくさま》。
と土間《どま》の端《はし》までゐざり出《い》でて、膝《ひざ》をついて、手《て》を合《あは》すのを、振返《ふりかへ》つて、母衣《ほろ》は下《お》りた。
一|臺《だい》の腕車《わんしや》二|人《にん》の車夫《しやふ》は、此《こ》の茶店《ちやみせ》に留《とゞ》まつて、人々《ひと/″\》とともに手當《てあて》をし、些《ちつ》とでもあがきが着《つ》いたら、早速《さつそく》武生《たけふ》までも其日《そのひ》の内《うち》に引返《ひつかへ》すことにしたのである。
民子《たみこ》の腕車《くるま》も二人《ふたり》がかり、それから三|里半《りはん》だら/\のぼりに、中空《なかぞら》に聳《そび》えたる、春日野峠《かすがのたうげ》にさしかゝる。
ものの半道《はんみち》とは上《のぼ》らないのに、車《くるま》の齒《は》の軋《きし》り強《つよ》く、平地《ひらち》でさへ、分《わ》けて坂《さか》、一|分間《ぷんかん》に一|寸《すん》づゝ、次第《しだい》に雪《ゆき》が嵩《かさ》増《ま》すので、呼吸《いき》を切《き》つても、もがいても、腕車《くるま》は一|歩《ぽ》も進《すゝ》まずなりぬ。
前《まへ》なるは梶棒《かぢぼう》を下《おろ》して坐《すわ》り、後《あと》なるは尻餅《しりもち》ついて、御新造《ごしんぞ》さん、とても[#「とても」に傍点]と謂《い》ふ。
大方《おほかた》は恁《か》くあらむと、期《ご》したることとて、民子《たみこ》も豫《あらかじ》め覺悟《かくご》したから、茶店《ちやみせ》で草鞋《わらぢ》を穿《は》いて來《き》たので、此處《こゝ》で母衣《ほろ》から姿《すがた》を顯《あらは》し、山路《やまぢ》の雪《ゆき》に下立《おりた》つと、早《は》や其《そ》の爪先《つまさき》は白《しろ》うなる。
下坂《くだりざか》は、動《うごき》が取《と》れると、一|名《めい》の車夫《しやふ》は空車《から》を曳《ひ》いて、直《す》ぐに引返《ひつかへ》す事《こと》になり、梶棒《かぢぼう》を取《と》つて居《ゐ》たのが、旅鞄《たびかばん》を一個《ひとつ》背負《しよ》つて、之《これ》が路案内《みちあんない》で峠《たうげ》まで供《とも》をすることになつた。
其《そ》の鐵《てつ》の如《ごと》き健脚《けんきやく》も、雪《ゆき》を踏《ふ》んではとぼ/\しながら、前《まへ》へ立《た》つて足《あし》あとを印《いん》して上《のぼ》る、民子《たみこ》はあとから傍目《わきめ》も觸《ふ》らず、攀《よ》ぢ上《のぼ》る心細《こゝろぼそ》さ。
千山《せんざん》萬岳《ばんがく》疊々《てふ/″\》と、北《きた》に走《はし》り、西《にし》に分《わか》れ、南《みなみ》より迫《せま》り、東《ひがし》より襲《おそ》ふ四圍《しゐ》たゞ高《たか》き白妙《しろたへ》なり。
さるほどに、山《やま》又《また》山《やま》、上《のぼ》れば峰《みね》は益《ます/\》累《かさな》り、頂《いたゞき》は愈々《いよ/\》聳《そび》えて、見渡《みわた》せば、見渡《みわた》せば、此處《こゝ》ばかり日《ひ》の本《もと》を、雪《ゆき》が封《ふう》ずる光景《ありさま》かな。
幸《さいはひ》に風《かぜ》が無《な》く、雪路《ゆきみち》に譬《たと》ひ山中《さんちう》でも、然《さ》までには寒《さむ》くない、踏《ふ》みしめるに力《ちから》の入《い》るだけ、却《かへ》つて汗《あせ》するばかりであつたが、裾《すそ》も袂《たもと》も硬《こは》ばるやうに、ぞつと寒《さむ》さが身《み》に迫《せま》ると、山々《やま/\》の影《かげ》がさして、忽《たちま》ち暮《くれ》なむとする景色《けしき》。あはよく峠《たうげ》に戸《と》を鎖《とざ》した一|軒《けん》の山家《やまが》の軒《のき》に辿《たど》り着《つ》いた。
さて奧樣《おくさま》、目當《めあて》にいたして參《まゐ》つたは此《こ》の小家《こいへ》、忰《せがれ》は武生《たけふ》に勞働《はたらき》に行《い》つて居《を》り、留守《るす》は山《やま》の主《ぬし》のやうな、爺《ぢい》と婆《ばゞ》二人《ふたり》ぐらし、此處《こゝ》にお泊《とま》りとなさいまし、戸《と》を叩《たゝ》い
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