ろこびの涙《なみだ》も、夜《よる》は片敷《かたし》いて帶《おび》も解《と》かぬ留守《るす》の袖《そで》に乾《かわ》きもあへず、飛報《ひはう》は鎭守府《ちんじゆふ》の病院《びやうゐん》より、一家《いつけ》の魂《たましひ》を消《け》しに來《き》た。
 少尉《せうゐ》が病《や》んで、豫後《よご》不良《ふりやう》とのことである。
 此《こ》の急信《きふしん》は××年《ねん》××月《ぐわつ》××日《にち》、午後《ごご》三|時《じ》に屆《とゞ》いたので、民子《たみこ》は蒼《あを》くなつて衝《つ》と立《た》つと、不斷着《ふだんぎ》に繻子《しゆす》の帶《おび》引緊《ひきし》めて、つか/\と玄關《げんくわん》へ。父親《ちゝおや》が佛壇《ぶつだん》に御明《みあかし》を點《てん》ずる間《ま》に、母親《はゝおや》は、財布《さいふ》の紐《ひも》を結《ゆは》へながら、駈《か》けて出《で》て之《これ》を懷中《ふところ》に入《い》れさせる、女中《ぢよちう》がシヨオルをきせかける、隣《となり》の女房《にようばう》が、急《いそ》いで腕車《くるま》を仕立《したて》に行《ゆ》く、とかうする内《うち》、お供《とも》に立《た》つべき與曾平《よそべい》といふ親仁《おやぢ》、身支度《みじたく》をするといふ始末《しまつ》。さて、取《と》るものも取《と》りあへず福井《ふくゐ》の市《まち》を出發《しゆつぱつ》した。これが鎭守府《ちんじゆふ》の病院《びやうゐん》に、夫《をつと》を見舞《みま》ふ首途《かどで》であつた。
 冬《ふゆ》の日《ひ》の、山國《やまぐに》の、名《な》にしおふ越路《こしぢ》なり、其日《そのひ》は空《そら》も曇《くも》りたれば、漸《やうや》く町《まち》をはづれると、九頭龍川《くづりうがは》の川面《かはづら》に、早《は》や夕暮《ゆふぐれ》の色《いろ》を籠《こ》めて、暗《くら》くなりゆく水蒼《みづあを》く、早瀬《はやせ》亂《みだ》れて鳴《な》る音《おと》も、千々《ちゞ》に碎《くだ》けて立《た》つ波《なみ》も、雪《ゆき》や!其《そ》の雪《ゆき》の思《おも》ひ遣《や》らるゝ空模樣《そらもやう》。近江《あふみ》の國《くに》へ山越《やまごし》に、出《い》づるまでには、中《なか》の河内《かはち》、木《き》の芽峠《めたうげ》が、尤《もつと》も近《ちか》きは目《め》の前《まへ》に、春日野峠《かすがのたうげ》を控《ひか》へ
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