誓之巻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)後《のち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|度《たび》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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  団欒  石段  菊の露  秀を忘れよ  東枕  誓
[#改ページ]

     団欒

 後《のち》の日のまどいは楽しかりき。
「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」
 とミリヤアドの顔嬉しげに打《うち》まもりつつ、高津《たかつ》は予を見向きていう。ミリヤアドの容体はおもいしより安らかにて、夏の半《なかば》一|度《たび》その健康を復せしなりき。
「高津さん、ありがとう。お庇《かげ》様で助かりました。上杉さん、あなたは酷《ひど》い、酷い、酷いもの飲ませたから。」
 と優しき、されど邪慳《じゃけん》を装える色なりけり。心なき高津の何をか興ずる。
「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」
「困るねえ、何も。」と予は面《おもて》を背けぬ。ミリヤアドは笑止がり、
「それでも、私《わたくし》は血を咯《は》きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。」
「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった襦袢《じゅばん》のね、真紅《まっか》なのが映ったんですよ。」
「こじつけるねえ、酷いねえ。」
「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」
 ミリヤアドは莞爾《にっこ》として、
「どうですか。ほほほ。」
「あら、片贔屓《かたびいき》を遊ばしてからに。」
 と高津はわざとらしく怨《えん》じ顔なり。
「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって散々《さんざ》酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の餡《あん》なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。」
「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。疾《とっ》くにこなれてそうなものですね。」
「何、綿が消化《こな》れるもんか。」
 ミリヤアド傍《かたわら》より、
「喧嘩《けんか》してはいけません。また動悸《どうき》を高くします。」
「ほんとに串戯《じょうだん》は止《よ》して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」
「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可《いけない》ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」
「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」
「え、もうそろそろ。」
 と予は椅子《いす》を除《の》けてぞ立ちたる。
「ミリヤアド。」
 ミリヤアドは頷《うなず》きぬ。
「高津さん。」
「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」
「それでは。」
 ミリヤアドは衝《つ》と立ちあがり、床に二ツ三ツ足ぶみして、空ざまに手をあげしが、勇ましき面色《おももち》なりき。
「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、駈《か》けてみましょう。門《かど》まで、」
 といいあえず、上着の片褄《かたづま》掻取《かいと》りあげて小刻《こきざみ》に足はやく、颯《さっ》と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、
「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」
 と呼び懸けながら慌《あわただ》しく追い行《ゆ》きたる、あとよりして予は出でぬ。
 木戸の際にて見たる時ミリヤアドは呼吸忙《いきせわ》しくたゆげなる片手をば、垂れて高津の肩に懸け、頭《こうべ》を少し傾けいたりき。

     石段

「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、室《へや》の中を駈《か》けてお歩行《ある》きなさるじゃありませんか。そうしちゃあね、(高津さん、歌をうたッて聞かせよう)ッてあの(なざれの歌)をね、人の厭《いや》がるものをつかまえてお唄いなさるの。唄っちゃ(ああ、こんなじゃ洋琴《オルガン》も役に立たない、)ッて寂《さみ》しい笑顔をなさるとすぐ、呼吸《いき》が苦しくなッて、顔へ血がのぼッて来るのだから、そんなことなすッちゃいけませんてッて、いつでも寝さしたんですよ。
 しかしね、こんな塩梅《あんばい》ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々|快《い》い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。
 そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより容子《ようす》が悪くおなんなすったから、急いで医者に診せましたの。はじめて行った時は、何でもなかったんですが、二度目ですよ。二度目にね、新さん、一所にお医者様の処へ連れて行ってあげた時、まあ、どうでしょう。」
 高津はじっと予を見たり。膝にのせたる掌《たなそこ》の指のさきを動かしつつ、
「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに呼吸《いき》をついていらっしゃるのを、抱いて上げた時は、私も胸を打たれたんですよ。
 まあ可《い》い、可い! ここを的に取って看病しよう。こん度来るまでにはきっと独《ひとり》でお上《あが》んなさるようにして見せよう。そうすりゃ素人目にも快《よ》くおなんなすった解《わか》りが早くッて、結句|張合《はりあい》があると思ったんですが、もうお医者様へいらっしゃることが出来たのはその日ッきり。新さん、やっぱりいけなかったの。
 お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと堪《こら》えていたけれどね、傍《そば》に居た老年《としより》の婦人《おんな》の方が深切に、(お気の毒様ですねえ。)
 といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って溜《たまり》へ行ッちゃ、笑って見せていたけれど、どんなに情《なさけ》なかったでしょう。
 様子に見せまいと思っても、ツイ胸が迫って来るもんですから、合乗《あいのり》で帰る道で私の顔を御覧なすって、
(何だねえ、どうしたの、妙な顔をして。)
 と笑いながらいって、憎らしいほどちゃんと澄《すま》していらっしゃるんだもの。気分は確《たしか》だし、何にも知らないで、と思うとかわいそうで、私ゃかわいそうで。
 今更じゃないけれど、こんな気立《きだて》の可い、優しい、うつくしい方がもう亡くなるのかと思ったら、ねえ、新さん、いつもより百倍も千倍も、優しい、美しい、立派な方に見えたろうじゃありませんか。誂《あつら》えて拵《こしら》えたような、こういう方がまたあろうか、と可惜《あったら》もので。可惜もので。大事な姉さんを一人、もう、どうしようと、我慢が出来なくなってね、車が石の上へ乗った時、私ゃソッと抱いてみたわ。」とぞ微笑《ほほえみ》たる、目には涙を宿したり。
「僕は何だか夢のようだ。」
「私だってほんとうにゃなりません位ひどくおやつれなすったから、ま、今に覧《み》てあげて下さいな。
 電報でもかけようか、と思ったのに。よく早く出京《で》て来てね。始終上杉さん、上杉さんッていっていらっしゃるから、どんなにか喜ぶでしょう。しかしね、急にまたお逢いなすっちゃ激するから、そッとして、いまに目をおさましなすッてから私がよくそういって、落着かしてからお逢いなさいましよ。腕車《くるま》やら、汽車やらで、新さん、あなたもお疲れだろうに、すぐこんなことを聞かせまして、もう私ゃ申訳がございません。折角お着き申していながら、どうしたら可《い》いでしょう、堪忍なさいよ。」

     菊の露

「もうもう思入《おもいれ》ここで泣いて、ミリヤアドの前じゃ、かなしい顔をしちゃいけません。そっとしておいてあげないと、お医師《いしゃ》が見えて、私が立廻ってさえ、早や何か御自分の身体《からだ》に異《かわ》ったことがあるのかと思って、直《すぐ》に熱が高くなりますからね。
 それでなくッてさえ熱がね、新さん四十《しじゅう》度の上あるんです。少し下るのは午前のうちだけで、もうおひるすぎや、夜なんざ、夢中なの。お薬を頂いて、それでまあ熱を取るんですが、日に四|度《たび》ぐらいずつ手巾《ハンケチ》を絞るんですよ。酷《ひど》いじゃありませんか。それでいて痰《たん》がこう咽喉《のど》へからみついてて、呼吸《いき》を塞《ふさ》ぐんですから、今じゃ、ものもよくは言えないんでね、私に話をして聞かしてと始終そういっちゃあね、詰《つま》らないことを喜んで聞いていらっしゃるの。
 どんなにか心細いでしょう。寝たっきりで、先月の二十日時分から寝返りさえ容易じゃなくッて、片寝でねえ。耳にまで床ずれがしてますもの。夜《よ》が永いのに眠られないで悩むのですから、どんなに辛いか分りません。話といったってねえ、新さん、酷く神経が鋭くなってて、もう何ですよ、新聞の雑報を聞かしてあげても泣くんですもの。何かねえ、小鳥の事か、木の実の話でもッておっしゃるけれど、どういっていいのか分らず、栗がおッこちるたって、私ゃ縁起が悪いもの。いいようがありません。それでなければ、治ってから片瀬の海浜にでも遊びにゆく時の景色なんぞ、月が出ていて、山が見えて、海が凪《な》ぎて、みさごが飛んで、そうして、ああするとか、こうするとかいって、聞かせて、といいますけれど、ね、新さん、あなたなら、あなたならば男だからいえるでしょう。いまにあなた章魚《たこ》に灸《きゅう》を据えるとか、蟹《かに》に握飯をたべさすとかいう話でもしてあげて下さいまし。私にゃ、私にゃ、どうしてもあの病人をつかまえて、治ってどうしようなんていうことは、情《なさけ》なくッて言えません。」
 という声もうるみにき。
「え、新さん、はなせますか、あなただって困るでしょう。耳が遠くおなんなすったくらい、茫《ぼう》としていらっしゃるのに、悪いことだと小さな声でいうのが遠くに居てよく聞えますもの。
 せいせいッてね、痰が咽《のど》にからんでますのが、いかにもお苦しそうだから、早く出なくなりますようにと、私も思いますし、病人も痰を咯《は》くのを楽《たのし》みにしていらっしゃいますがね、果敢《はか》ないじゃありませんか、それが、血を咯くより、なお、酷く悪いんですとさ。
 それでいてあがるものはというと、牛乳《ミルク》を少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水で濡《ぬら》しているんですよ。もうほんとうにあわれなくらいおやせなすって、菊の露でも吸わせてあげたいほど、小さく美しくおなりだけれど、ねえ、新さん、そうしたら身体《からだ》が消えておしまいなさろうかと思って。」
 といいかけて咽泣《むせびな》き、懐より桃色の絹の手巾《ハンケチ》をば取り出でつつ目を拭《ぬぐ》いしを膝にのして、怨《うら》めしげに瞻《みまも》りぬ。
「新さん、手巾《これ》でね、汗を取ってあげるんですがね、そんなに弱々しくおなんなすった、身体から絞るようじゃありませんか。ほんとに冷々《ひやひや》するんですよ。拭《ふ》くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、頸《えり》ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、口惜《くやし》くッてなりません。
 だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんですもの。今ン処じゃただもう強いお薬のせいで、ようよう持っていますんですとね、ね、十滴ずつ。段々多くするんですッて。」
 青き小《ちいさ》き瓶あり。取りて持返して透《すか》したれば、流動体の平面斜めになりぬ。何
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