ならむ、この薬、予が手に重くこたえたり。
 じっとみまもれば心も消々《きえぎえ》になりぬ。
 その口の方《かた》早や少しく減じたる。それをば命とや。あまり果敢《はか》なさに予は思わず呟《つぶや》きぬ。
「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」
「いえ、また取りに参ります……」
 といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。

     秀を忘れよ

「あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ不可《いけな》い。」
「いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。」
「どうすりゃ可《い》いのかなあ。」
 ただといきのみつかれたる、高津はしばしものいわざりしが、
「どうしようにも、しようがないの。ただねえ、せめて安心をさしてあげられりゃ、ちっとは、新さん何だけれど。」
 と予が顔を打《うち》まもれり。
「それがどうすりゃいいんだか。」
「さあ、母様《おっかさん》のことも大抵いい出しはなさらないし、他《ほか》に、別に、こうといって、お心懸《こころがか》りもおあんなさらないようですがね、ただね、始終心配していらっしゃるのは、新さん、あなたの事ですよ。」
「僕を。」
「ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。」
「え。」
「あのね、始終そういっていらっしゃるの。(私が居る内は可《い》いけれど、居なくなると、上杉さんがどんなことをしようも知れない)ッて。」
「何を僕が。」
 予は顔の色かわらずやと危ぶみしばかりなりき。背《せな》はひたと汗になりぬ。
「いいえ、ほんとうでしょう、ほんとうに違いませんよ。それに違いないお顔ですもの。私が見ましてさえ、何ですか、いつも、もの思《おもい》をして、うつらうつらとしていらっしゃるようじゃありませんか。誠にお可哀相《かわいそう》な様《よう》ですよ。ミリヤアドもそういいましたっけ。(私が慰めてやらなければ、あの児《こ》はどうするだろう)ッて。何もね、秘密なことを私が聞こうじゃありませんけれど、なりますことなら、ミリヤアドに安心をさしてあげて下さいな。え、新さん、(私が居さえすりゃ、大丈夫だけれど、どうも案じられて。)とおっしゃるんですから、何とかしておあげなさいな。あなたにゃその工夫があるでしょう、上杉さん。」
 名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば秀《ひで》を忘れよというなり。その事をば、母上の御名《おんな》にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。
 予は黙してうつむきぬ。
「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」
 また顔見たり。
 折から咳入《せきい》る声聞ゆ。高津は目くばせして奥にゆきぬ。
 ややありて、
「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、可《よ》うござんすか。」
 という声しき。
「新さん。」
 と聞えたれば馳《は》せゆきぬ。と見れば次の室《ま》は片付きて、畳に塵《ちり》なく、床花瓶《とこはないけ》に菊一輪、いつさしすてしか凋《しお》れたり。

     東枕

 襖《ふすま》左右に開きたれば、厚衾《あつぶすま》重ねたる見ゆ。東に向けて臥床《ふしど》設けし、枕頭《まくらもと》なる皿のなかに、蜜柑《みかん》と熟したる葡萄《ぶどう》と装《も》りたり。枕をば高くしつ。病める人は頭《かしら》埋《うず》めて、小《ちいさ》やかにぞ臥したりける。
 思いしよりなお瘠《や》せたり。頬のあたり太《いた》く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼《まぶた》に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐《すわ》りもやらで、襖の此方《こなた》に彳《たたず》みつつ、みまもりてそれをミリヤアドと思う胸はまずふたがりぬ。
「さ、」
 と座蒲団《ざぶとん》差《さし》よせたれば、高津とならびて、しおしおと座につきぬ。
 顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。
 寝返ることだに得《え》せぬ人の、片手の指のさきのみ、少しく衾《ふすま》の外に出《いだ》したる、その手の動かむともせず。
 瞳キト据《すわ》りたれば、わが顔見られむと堪《こら》えずうつむきぬ。ミリヤアドとばかりもわが口には得《え》出ででなむ、強いて微笑《ほほえ》みしが我ながら寂しかりき。
 高津の手なる桃色の絹の手巾《ハンケチ》は、はらりと掌《たなそこ》に広がりて、軽《かろ》くミリヤアドの目のあたり拭《ぬぐ》いたり。
「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」
 頬のあたりをまた拭いぬ。
「分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。」
「上杉さん。」
 極めて低けれど忘れぬ声なり。
「こんなになりました。」
 とややありて切なげにいいし一句にさえ、呼吸《いき》は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空|蒼《あお》く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失《う》せむと、見る目も危うく窶《やつ》れしかな。
「切のうござんすか。」
 ミリヤアドは夢見る顔なり。
「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」
「切のうござんすか。」
 頷《うなず》く状《さま》なりき。
「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くなりますからまるで、現《うつつ》。」
 と低声《こごえ》にいう。かかるものをいかなる言《ことば》もて慰むべき。果《はて》は怨《うら》めしくもなるに、心激して、
「どうするんです、ミリヤアド、もうそんなでいてどうするの。」
 声高にいいしを傍《かたわら》より目もて叱られて、急に、
「何ともありませんよ、何、もう、いまによくなります。」
 いいなおしたる接穂《つぎほ》なさ。面《おもて》を背けて、
「治らないことはありません。治るよ、高津さん。」
 高津は勢《いきおい》よく、
「はい、それはあなた、神様がいらっしゃいます。」
 予はまた言わざりき。

     誓

 月|凍《い》てたり。大路《おおじ》の人の跫音《あしおと》冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠《ほ》ゆるもやみたり。一《ひと》しきり、一しきり、檐《のき》に、棟に、背戸の方《かた》に、颯《さ》と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩《こがらし》! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣《きぬ》深く引被《ひきかつ》ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそするなりけれ。
 かかる夜《よ》を伽《とぎ》する身の、何とて二人の眠らるべき。此方《こなた》もただ眠りたるまねするを、今は心安しとてやミリヤアドのやや時すぐれば、ソト顔を出だして、あたりをば見まわしつつ、いねがてに明《あけ》を待つ優しき心づかい知りたれば、その夜もわざと眠るまねして、予は机にうつぶしぬ。
 掻巻《かいまき》をば羽織らせ、毛布《けっと》引《ひき》かつぎて、高津は予が裾《すそ》に背《せな》向けて、正しゅう坐るよう膝をまげて、横にまくらつけしが、二ツ三ツものいえりし間《ま》に、これは疲れて転寝《うたたね》せり。
 何なりけむ。ものともなく膚《はだえ》あわだつに、ふと顔をあげたれば、ありあけ暗き室のなかにミリヤアドの双の眼《まなこ》、はき[#「はき」に傍点]とあきて、わが方《かた》を見詰めいたり。
 予が見て取りしを彼方《かなた》にもしかと見き。ものいうごとき瞳の動き、引寄するように思われたれば、掻巻|刎《は》ねのけて立ちて、進み寄りぬ。
 近よれという色見ゆ。
 やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし状《さま》に恐しき感ありき。
「高津さん。」
「少し休みましたようです。」
「そう。」
 とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、
「上杉さん、あなたどうします。」
 予は思わずわななきぬ。
「何を、ミリヤアド。」
「私《わたくし》なくなりますと、あなたどうします。」
 涙ながら、
「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」
「いいえ、どうします。」と強くいえり。
「そんなことを、僕は知りません。」
「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、私《わたくし》、頼みます、秀、秀。」
 予は頭《こうべ》より氷を浴ぶる心地したりき。折から風の音だもあらず、有明の燈影《とうえい》いと幽《かすか》に、ミリヤアドが目に光さしたり。
「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」
 予は伏沈《ふししず》みぬ。
「かわいそう、かわいそうですけれども、私《わたくし》、こんな、こんな、病気になりました。仕方がない、あなたどうします。かわいそうで、安心して死なれません。苦しい、苦しい、かわいそうと思いませんか。私、あなたをかわいがりました。私を、私を、かわいそうとは思いませんか。」
 一しきり、また凩《こがらし》の戸にさわりて、ミリヤアドの顔|蒼《あお》ざめぬ。その眉|顰《ひそ》み、唇ふるいて、苦痛を忍び瞼《まぶた》を閉じしが、十分《じっぷん》時《じ》過ぎつと思うに、ふとまた明らかに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》けり。
「肯《き》きませんか。あなた、私《わたくし》を何と思います。」
 と切なる声に怒《いかり》を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、射竦《いすく》めらるる思《おもい》あり。
 枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉《ふよう》の花片《はなびら》、香《こう》の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。
「母上《おっかさん》。」
 と、ミリヤアドの枕の許《もと》に僵《たお》れふして、胸に縋《すが》りてワッと泣きぬ。
 誓えとならば誓うべし。
「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」
 ミリヤアドは目を塞《ふさ》ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外《おもて》の風。
 予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が掌《たなそこ》左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。
「ミリヤアド。」
「ミリヤアド。」
 目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、夜《よ》深くなりゆく凩の風。
 神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。
[#地から1字上げ]明治三十(一八九七)年一月



底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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