てさ、山から下駄穿《げたばき》でしゃんしゃんと下りていらっしゃるのに、不思議と草鞋穿《わらじばき》で、饅頭笠《まんじゅうがさ》か何かで遣《や》って見えてさ、まあ、こうだわ。
(御宅の御新造|様《さん》は、私《わし》ン処《とこ》に居ますで案じさっしゃるな、したがな、また旧《もと》なりにお前の処へは来ないからそう思わっしゃいよ。)
と好《すき》なことをいって、草鞋も脱がないで、さっさっ去《い》っておしまいなすったじゃないか。
さあ騒ぐまいか。あっちこち聞きあわせると、あの尼様はこの四五日《しごんち》前から方々の帰依者《きえしゃ》ン家《とこ》をずっと廻って、一々、
(私《わし》はちっと思い立つことがあって行脚《あんぎゃ》に出ます。しばらく逢わぬでお暇乞《いとまごい》じゃ。そして言っておくが、皆の衆決して私《わし》が留守へ行って、戸をあけることはなりませぬぞ。)
と、そういっておあるきなすッたそうさね、そして肝心のお邸を、一番あとまわしだろうじゃあないかえ、これも酷《ひど》いわね。」
三
「うっちゃっちゃあおかれない、いえ、おかれないどころじゃあない。直ぐお迎いをというので、お前様《まえさん》、旦那に伺うとまあどうだろう。
御遊山を遊ばした時のお伴のなかに、内々|清心庵《あまでら》にいらっしゃることを突留めて、知ったものがあって、先《せん》にもう旦那様に申しあげて、あら立ててはお家の瑕瑾《かきん》というので、そっとこれまでにお使《つかい》が何遍も立ったというじゃアありませんか。
御新造様は何といっても平気でお帰り遊ばさないというんだもの。ええ! 飛んでもない。何とおっしゃったって引張《ひっぱ》ってお連れ申しましょうとさ、私とお仲さんというのが二人で、男衆を連れてお駕籠を持ってさ、えッちらおッちらお山へ来たというもんです。
尋ねあてて、尼様《あまさん》の家《とこ》へ行って、お頼み申します、とやると、お前様。
(誰方《どなた》、)
とおっしゃって、あの薄暗いなかにさ、胸の処から少し上をお出し遊ばして、真白《まっしろ》な細いお手の指が五本|衝立《ついたて》の縁へかかったのが、はッきり見えたわ、御新造様だあね。
お髪《ぐし》がちいっと乱れてさ、藤色の袷《あわせ》で、ありゃしかも千ちゃん、この間お出かけになる時に私が後《うしろ》からお懸け申したお召《めし》だろうじゃアありませんか。凄《すご》かったわ。おやといって皆《みんな》後じさりをしましたよ。
驚きましたね、そりゃ旧《もと》のことをいえば、何だけれど、第一お前様、うちの御新造様とおっしゃる方がさ、頼みます、誰方ということを、この五六年じゃあ、もう忘れておしまい遊ばしただろうと思ったもの。
誰だじゃあございません。さて、あなたは、と開き直っていうことになると、
(また、迎《むかい》かい。)
といって、笑っていらっしゃるというもんです。いえまたも何も、滅相な。
(皆《みんな》御苦労ね。だけれど私あまだ帰らないから、かまわないでおくれ。ちっとやすんだらお帰りだといい。お湯《ぶう》でもあげるんだけれど、それよりか庭のね、筧《かけひ》の水が大層々々おいしいよ。)
なんて澄《すま》していらっしゃるんだもの。何だか私たちああんまりな御様子に呆《あき》れッちまって、ぼんやりしたの、こりゃあまあ魅《つま》まれてでもいないかしらと思った位だわ。
いきなり後《うしろ》からお背《なせ》を推して、お手を引張《ひっぱ》ってというわけにもゆかないのでね、まあ、御挨拶《ごあいさつ》半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お実家《さと》には親御様お両方《ふたかた》ともお達者なり、姑御《しゅうとご》と申すはなし、小姑一|人《にん》ございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そうかといって御気分がお悪いでもなく、何が御不足で、尼になんぞなろうと思し召すのでございますと、お仲さんと二人両方から申しますとね。御新造様が、
(いいえ、私は尼になんぞなりはしないから。)
(へえ、それではまたどう遊ばしてこんな処に、)
(ちっと用があって、)
とおっしゃるから、どういう御用でッて、まあ聞きました。
(そんなこといわれるのがうるさいからここに居るんだもの。可《い》いから、お帰り。)
とこんな御様子なの。だって、それじゃあ困るわね。帰るも帰らないもありゃあしないわ。
じゃあまあそれはたってお聞き申しませんまでも、一体|此家《ここ》にはお一人でございますかって聞くと、
(二人。)とこうおっしゃった。
さあ、黙っちゃあいられやしない。
こうこういうわけですから、尼様と御一所ではなかろうし、誰方とお二人でというとね、
(可愛い児《こ》とさ、)とお笑いなすった。
うむ、こりゃ仔細《しさい》のないこった。華族様の御台様《みだいさま》を世話でお暮し遊ばすという御身分で、考えてみりゃお名もまや[#「まや」に傍点]様で、夫人というのが奥様のことだといってみれば、何のことはない、大倭《やまと》文庫の、御台様さね。つまり苦労のない摩耶夫人様《まやぶにんさま》だから、大方|洒落《しゃれ》に、ちょいと雪山《せっせん》のという処をやって、御覧遊ばすのであろう。凝ったお道楽だ。
とまあ思っちゃあ見たものの、千ちゃん、常々の御気象が、そんなんじゃあおあんなさらない……でしょう。
可愛い児とおっしゃるから、何ぞ尼寺でお気に入った、かなりやでもお見付け遊ばしたのかしらなんと思ってさ、うかがって驚いたのは、千ちゃんお前様《まえさん》のことじゃあないかね。
(いつでもうわさをしていたからお前たちも知っておいでだろう。蘭《らん》や、お前が御存じの。)
とおっしゃったのが、何と十八になる男だもの、お仲さんが吃驚《びっくり》しようじゃあないか。千ちゃん、私も久しく逢わないで、きのうきょうのお前様は知らないから――千ちゃん、――むむ、お妙《たえ》さんの児の千ちゃん、なるほど可愛い児だと実をいえば、はじめは私もそれならばと思ったがね、考えて見ると、お前様、いつまで、九ツや十で居るものか。もう十八だとそう思って驚いたよ。
何の事はない、密通《まおとこ》だね。
いくら思案をしたって御新造様は人の女房さ。そりゃいくら邸の御新造様だって、何だってやっぱり女房だもの。女房がさ、千ちゃん、たとい千ちゃんだって何だって、男と二人で隠れていりゃ、何のことはない、怒っちゃあいけませんよ、やっぱり何さ。
途方もない、乱暴な小僧《こぞ》ッ児《こ》の癖に、失礼な、末恐しい、見下げ果てた、何の生意気なことをいったって私が家《とこ》に今でもある、アノ籐《とう》で編んだ茶台はどうだい、嬰児《ねんねえ》が這《は》ってあるいて玩弄《おもちゃ》にして、チュッチュッ噛《か》んで吸った歯形がついて残ッてら。叱り倒してと、まあ、怒っちゃあ嫌よ。」
四
「それが何も、御新造様さえ素直に帰るといって下さりゃ、何でもないことだけれど、どうしても帰らないとおっしゃるんだもの。
お帰り遊ばさないたって、それで済むわけのものじゃあございません。一体どう遊ばす思召《おぼしめし》でございます。
(あの児《こ》と一所に暮そうと思って、)
とばかりじゃあ、困ります。どんなになさいました処で、千ちゃんと御一所においで遊ばすわけにはまいりません。
(だから、此家《ここ》に居るんじゃあないか。)
その此家《ここ》は山ン中の尼寺じゃアありませんか。こんな処にあの児と二人おいで遊ばしては、世間で何と申しましょう。
(何といわれたって可《い》いんだから、)
それでは、あなた、旦那様に済みますまい。第一親御様なり、また、
(いいえ、それだからもう一生人づきあいをしないつもりで居る。私が分ってるから、可《い》いから、お前たちは帰っておしまい、可いから、分っているのだから、)
とそんな分らないことがありますか。ね、千ちゃん、いくら私たちが家来だからって、ものの理は理さ、あんまりな御無理だから種々《いろいろ》言うと、しまいにゃあただ、
(だって不可《いけな》いから、不可いから、)
とばかりおっしゃって果《はて》しがないの。もうこうなりゃどうしたってかまやしない。どんなことをしてなりと、お詫《わび》はあとですることと、無理やりにも力ずくで、こっちは五人、何の! あんな御新造様、腕ずくならこの蘭一人で沢山だわ。さあというと、屹《きっ》と遊ばして、
(何をおしだ、お前達、私を何だと思うのだい、)
とおっしゃるから、はあ、そりゃお邸の御新造様だと、そう申し上げると、
(女中たちが、そんな乱暴なことをして済みますか。良人《やど》なら知らぬこと、両親《ふたおや》にだって、指一本ささしはしない。)
あれで威勢がおあんなさるから、どうして、屹《きっ》と、おからだがすわると、すくんじまわあね。でもさ、そんな分らないことをおっしゃれば、もう御新造様でも何でもない。
(他人ならばうっちゃっておいておくれ。)
とこうでしょう。何てったって、とてもいうことをお肯《き》き遊ばさないお気なんだから仕ようがない。がそれで世の中が済むのじゃあないんだもの。
じゃあ、旦那様がお迎《むかい》にお出で遊ばしたら、
(それでも帰らないよ。)
無理にも連れようと遊ばしたら、
(そうすりゃ御身分にかかわるばかりだもの。)
もうどう遊ばしたというのだろう。それじゃあ、旦那様と千ちゃんと、どちらが大事でございますって、この上のいいようがないから聞いたの。そうするとお前様《まえさん》、
(ええ、旦那様は私が居なくっても可《い》いけれど、千ちゃんは一所に居てあげないと死んでおしまいだから可哀相《かわいそう》だもの。)
とこれじゃあもう何にもいうことはありませんわ。ここなの、ここなんだがね、千ちゃん、一体こりゃ、ま、お前さんどうしたというのだね。」
女はいいかけてまた予が顔を瞻《みまも》りぬ。予はほと一|呼吸《いき》ついたり。
「摩耶さんが知っておいでだよ、私は何にも分らないんだ。」
「え、分らない。お前さん、まあ、だって御自分のことが御自分に。」
予は何とかいうべき。
「お前、それが分る位なら、何もこんなにゃなりやしない。」
「ああれ、またここでもこうだもの。」
五
女はまたあらためて、
「一体詮じ詰めた処が千ちゃん、御新造様と一所に居てどうしようというのだね。」
さることはわれも知らず。
「別にどうってことはないんだ。」
「まあ。」
「別に、」
「まあさ、御飯をたいて。」
「詰《つま》らないことを。」
「まあさ、御飯をたいて、食べて、それから、」
「話をしてるよ。」
「話をして、それから。」
「知らない。」
「まあ、それから。」
「寝っちまうさ。」
「串戯《じょうだん》じゃあないよ。そしてお前様《まえさん》、いつまでそうしているつもりなの。」
「死ぬまで。」
「え、死ぬまで。もう大抵じゃあないのね。まあ、そんならそうとして、話は早い方が可《い》いが、千ちゃん、お聞き。私だって何も彼家《あすこ》へは御譜代というわけじゃあなしさ、早い話が、お前さんの母様《おっかさん》とも私あ知合だったし、そりゃ内の旦那より、お前さんの方が私ゃまったくの所、可愛いよ。可いかね。
ところでいくらお前さんが可愛い顔をしてるたって、情婦《いろ》を拵《こしら》えたって、何もこの年紀《とし》をしてものの道理がさ、私がやっかむにも当らずか、打明けた所、お前さん、御新造様と出来たのかね。え、千ちゃん、出来たのならそのつもりさ。お楽《たのし》み! てなことで引退《ひきさが》ろうじゃあないか。不思議で堪《たま》らないから聞くんだが、どうだねえ、出来たわけかね。」
「何がさ。」
「何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。」
「だって、出来たって分らないもの。」
「むむ、どうもこれじゃあ拵えようという柄《がら》じゃあないのね。いえね、何も忠義だてを
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