めし》だろうじゃアありませんか。凄《すご》かったわ。おやといって皆《みんな》後じさりをしましたよ。
 驚きましたね、そりゃ旧《もと》のことをいえば、何だけれど、第一お前様、うちの御新造様とおっしゃる方がさ、頼みます、誰方ということを、この五六年じゃあ、もう忘れておしまい遊ばしただろうと思ったもの。
 誰だじゃあございません。さて、あなたは、と開き直っていうことになると、
(また、迎《むかい》かい。)
 といって、笑っていらっしゃるというもんです。いえまたも何も、滅相な。
(皆《みんな》御苦労ね。だけれど私あまだ帰らないから、かまわないでおくれ。ちっとやすんだらお帰りだといい。お湯《ぶう》でもあげるんだけれど、それよりか庭のね、筧《かけひ》の水が大層々々おいしいよ。)
 なんて澄《すま》していらっしゃるんだもの。何だか私たちああんまりな御様子に呆《あき》れッちまって、ぼんやりしたの、こりゃあまあ魅《つま》まれてでもいないかしらと思った位だわ。
 いきなり後《うしろ》からお背《なせ》を推して、お手を引張《ひっぱ》ってというわけにもゆかないのでね、まあ、御挨拶《ごあいさつ》半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お実家《さと》には親御様お両方《ふたかた》ともお達者なり、姑御《しゅうとご》と申すはなし、小姑一|人《にん》ございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そうかといって御気分がお悪いでもなく、何が御不足で、尼になんぞなろうと思し召すのでございますと、お仲さんと二人両方から申しますとね。御新造様が、
(いいえ、私は尼になんぞなりはしないから。)
(へえ、それではまたどう遊ばしてこんな処に、)
(ちっと用があって、)
 とおっしゃるから、どういう御用でッて、まあ聞きました。
(そんなこといわれるのがうるさいからここに居るんだもの。可《い》いから、お帰り。)
 とこんな御様子なの。だって、それじゃあ困るわね。帰るも帰らないもありゃあしないわ。
 じゃあまあそれはたってお聞き申しませんまでも、一体|此家《ここ》にはお一人でございますかって聞くと、
(二人。)とこうおっしゃった。
 さあ、黙っちゃあいられやしない。
 こうこういうわけですから、尼様と御一所ではなかろうし、誰方とお二人でというとね、
(可愛い児《こ》とさ、)とお笑いなすった。
 うむ、こりゃ仔細《しさい》のないこった。華族様の御台様《みだいさま》を世話でお暮し遊ばすという御身分で、考えてみりゃお名もまや[#「まや」に傍点]様で、夫人というのが奥様のことだといってみれば、何のことはない、大倭《やまと》文庫の、御台様さね。つまり苦労のない摩耶夫人様《まやぶにんさま》だから、大方|洒落《しゃれ》に、ちょいと雪山《せっせん》のという処をやって、御覧遊ばすのであろう。凝ったお道楽だ。
 とまあ思っちゃあ見たものの、千ちゃん、常々の御気象が、そんなんじゃあおあんなさらない……でしょう。
 可愛い児とおっしゃるから、何ぞ尼寺でお気に入った、かなりやでもお見付け遊ばしたのかしらなんと思ってさ、うかがって驚いたのは、千ちゃんお前様《まえさん》のことじゃあないかね。
(いつでもうわさをしていたからお前たちも知っておいでだろう。蘭《らん》や、お前が御存じの。)
 とおっしゃったのが、何と十八になる男だもの、お仲さんが吃驚《びっくり》しようじゃあないか。千ちゃん、私も久しく逢わないで、きのうきょうのお前様は知らないから――千ちゃん、――むむ、お妙《たえ》さんの児の千ちゃん、なるほど可愛い児だと実をいえば、はじめは私もそれならばと思ったがね、考えて見ると、お前様、いつまで、九ツや十で居るものか。もう十八だとそう思って驚いたよ。
 何の事はない、密通《まおとこ》だね。
 いくら思案をしたって御新造様は人の女房さ。そりゃいくら邸の御新造様だって、何だってやっぱり女房だもの。女房がさ、千ちゃん、たとい千ちゃんだって何だって、男と二人で隠れていりゃ、何のことはない、怒っちゃあいけませんよ、やっぱり何さ。
 途方もない、乱暴な小僧《こぞ》ッ児《こ》の癖に、失礼な、末恐しい、見下げ果てた、何の生意気なことをいったって私が家《とこ》に今でもある、アノ籐《とう》で編んだ茶台はどうだい、嬰児《ねんねえ》が這《は》ってあるいて玩弄《おもちゃ》にして、チュッチュッ噛《か》んで吸った歯形がついて残ッてら。叱り倒してと、まあ、怒っちゃあ嫌よ。」

       四

「それが何も、御新造様さえ素直に帰るといって下さりゃ、何でもないことだけれど、どうしても帰らないとおっしゃるんだもの。
 お帰り遊ばさないたって、それで済むわけのものじゃあございません。一体どう遊ばす思召《おぼしめし》でございます。
(あの
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