清心庵
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)市《まち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)草履|穿《は》き

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(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]
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       一

 米と塩とは尼君が市《まち》に出で行《ゆ》きたまうとて、庵《いおり》に残したまいたれば、摩耶《まや》も予も餓《う》うることなかるべし。もとより山中の孤家《ひとつや》なり。甘きものも酢きものも摩耶は欲しからずという、予もまた同じきなり。
 柄長く椎《しい》の葉ばかりなる、小《ちいさ》き鎌を腰にしつ。籠《かご》をば糸つけて肩に懸け、袷《あわせ》短《みじか》に草履|穿《は》きたり。かくてわれ庵を出でしは、午《ご》の時過ぐる比《ころ》なりき。
 麓《ふもと》に遠き市人《いちびと》は東雲《しののめ》よりするもあり。まだ夜明けざるに来《きた》るあり。芝茸《しばたけ》、松茸、しめじ、松露など、小笹《おざさ》の蔭、芝の中、雑木の奥、谷間《たにあい》に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。
 昨日《きのう》一昨日《おととい》雨降りて、山の地《つち》湿りたれば、茸《きのこ》の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に馴《な》れて、あたりの地味にくわしとて、何ほどのものか獲らるべき。
 米と塩とは貯えたり。筧《かけひ》の水はいと清ければ、たとい木の実|一個《ひとつ》獲ずもあれ、摩耶も予も餓うることなかるべく、甘きものも酢きものも渠《かれ》はたえて欲しからずという。
 されば予が茸《たけ》狩らむとして来《きた》りしも、毒なき味《あじわい》の甘きを獲て、煮て食《くら》わむとするにはあらず。姿のおもしろき、色のうつくしきを取りて帰りて、見せて楽《たのし》ませむと思いしのみ。
「爺《じい》や、この茸は毒なんか。」
「え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら殺《や》られますぜ。紅茸《べにたけ》といってね、見ると綺麗《きれい》でさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア真白《まっしろ》で、茸《きのこ
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