うで、やっぱり情人の一人なんです。
(推参。)
 か何かの片手なぐりが、見事に首をころりと落す。拳《こぶし》の冴《さえ》に、白刃《しらは》の尖《さき》が姉の腕を掠《かす》って、カチリと鳴った。
 あっと云うと、二人とも目を覚した。
 お綾の手に、抜いた刀はなかったが、貴婦人は二の腕にはめた守護袋《まもりぶくろ》の黄色《きん》の金具を圧《おさ》えていたっていう事です。
 実は、同じ夢を見たんだそうで、もっとも二階から顔を出したのも、窓から覗《のぞ》いたのも、樹上りをしたのも、皆《みんな》同時に貴婦人は知っていた。
 自分の情人を、一人々々妹が斬殺すんで、はらはらするが、手足は動かず、声も出せない。その疲れた身体《からだ》で、最後に八百屋の若いものに悩まされた処――片腕一所に斬られた、と思ったが、守護袋で留まったと言う。
 貴婦人の病気は、それで、快癒《かいゆ》。
 が、入交《いれかわ》って、お綾は今の身になった。
 と言うのは、夢中ながら、男を斬った心持が、骨髄《こつずい》に徹して忘れられん。……思い出すと、何とも言えず、肉が動く、血汐《ちしお》が湧《わ》く、筋が離れる。
 他《ほか》の事は考えられず、何事も手に着かない、で、三度の食も欲《ほし》くなくなる。
 ところが、親が蒔絵職《まきえしょく》。小児《こども》の時から見習いで絵心があったので、ノオトブックへ鉛筆で、まず、その最初の眉間割《みけんわり》を描《か》いたのがはじまりで。
 顔だけでは、飽足《あきた》らず、線香のような手足を描いて、で、のけぞらした形へ、疵《きず》をつける。それも墨だけでは心ゆかず、やがて絵の具をつかい出した。
 けれども、男の膚《はだ》は知らない処女の、艶書《ふみ》を書くより恥かしくって、人目を避くる苦労に痩《や》せたが、病《やまい》は嵩《こう》じて、夜も昼もぼんやりして来た。
 貴婦人も、それっきり学校はやめたが、お綾も同断。その代り寂《さびし》い途中、立向うても見送っても、その男を目に留めて、これを絵姿にして、斬る、突く、胸を刺す。……血を彩って、日を経《ふ》ると、きっとそのものは生命《いのち》がないというのが知れる……段々嵩じて、行違いなりにも、ハッと気合を入れると、即座に打倒《ぶったお》れる人さえ出来た。
 が、可恐《おそろし》いのは、一夜《あるよ》、夜中に、ある男を呪詛《のろ》っていると、ばたりと落ちて、脇腹から、鳩尾《みずおち》の下、背中と、浴衣越しに、――それから男に血を彩ろうという――紅《べに》の絵の具皿の覆《こぼ》れかかったのが、我が身の皮を染め、肉を透して、血に交って、洗っても、拭《ぬぐ》っても、濃くなるばかりで、褪《あ》せさえせぬ。
 お綾は貴婦人の膝に縋《すが》って、すべてを打明けて泣いたんです。
 その頃は、もう生れかわったようになって、何某《なにがし》の令夫人だった貴婦人は、我が身も同《おんな》じに、悲《かなし》み傷《いた》んで、何は措《お》いても、その悪い癖を撓《た》め直そうと、千辛万苦《せんしんばんく》したけれども、お綾は、怪《あやし》い情を制し得ない。
 情を知った貴婦人は、それから心着いて試みると、お綾に呪詛《のろ》われたものは、必ず無事ではないのが確《たしか》で。
 今はこう、とお綾の決心を聞いた上、心一つで計らって、姫捨山を見立てました。
 ところが、この倶利伽羅峠は、夢に山の端《は》に白刃《しらは》を拭《ぬぐ》って憩った、まさしくその山の姿だと言う。しかしこの峠を越したのが、少《わか》い人には、はじめて国の境を出たので、その思出もあったからでしょう。
 ちょうど、立場《たてば》が荒廃《すた》れて、一軒家が焼残ったというのも奇蹟だからと、そこで貴婦人が買取って、少《わか》い女《ひと》の世を避ける隠れ里にしたのだと言います。
 で、一切《すべて》の事は、秘密に貴婦人が取《とり》まかなう。」

       三十七

「月に一度、あるいは二度、貴婦人が忍んで山に上って来る。その時は、ああして抱いて、もとは自分から起った事と、膚《はだ》の曇《くもり》に接吻《キッス》をする。
 が、雪なす膚に、燃え立つ鬼百合の花は、吸消されもせず、しぼみもしない。のみならず、会心の男が出来て、これはと思うその胸へ、グザと刃《やいば》を描いて刺す時、膚を当てると、鮮紅《からくれない》の露を絞って、生血《いきち》の雫《しずく》が滴点《したた》ると言います。
 広間の壁には、竹箆《たけべら》で土を削って、基督《キリスト》の像が、等身に刻みつけて描《か》いてあった。本箱の中も、残らず惨憺《さんたん》たる彩色画《さいしきが》で、これは目当の男のない時、歴史に血を流した人を描くのでした。」
 と物語る、三造の声は震えた。……
「お先達。
 で、貴婦人は、
(縁のある貴下《あなた》。……ここに居て、打ちもし、蹴りもし、縛《くく》りもして、悪い癖を治して上げて下さい。)
 と言う。
 若い人は、
(おなつかしい方だけに、こんな魔所には留められません、身体《からだ》の斑《ぶち》が消えないでは。)
 と、しっかり袂《たもと》に縋《すが》って泣きます。
 私は、死ぬ決心をするほど迷った。
 果しなく猶予《ためら》っているのを見て、大方、それまでに話した様子で、後で呪詛《のろ》われるのを恐れるために、立て得ないんだと思ったらしい。
 沓脱《くつぬぎ》をつかつかと、真白い跣足《はだし》で背戸へ出ると、母屋の羽目《はめ》を、軒へ掛けて、森のように搦《から》んだ烏瓜《からすうり》の蔓《つる》を手繰《たぐ》って、一束《ひとつか》ねずるずると引きながら、浅茅生《あさぢう》の露に膝を埋《うず》めて、背《せな》から袖をぐるぐると、我手《わがて》で巻くので、花は雪のように降りかかった。
 旭《あさひ》が出ました。
 驚く私を屹《きっ》と見て
(誓《ちかい》は違《たが》えぬ! 貴下が去《い》って、他《ほか》の犠牲《にえ》の――巣にかかるまで、このままここで動きはしない、)
 心安く下山せよ。
(さあ、)
 と言うと、一目|凝《じっ》と見た目を瞑《ねむ》って、黒髪をさげて俯向《うつむ》いたんです。
 顔を背けて、我にもあらず、縁に腰を落した内に、貴婦人が草鞋《わらじ》を結んだ。
 堪《たま》らなくなって、飛出して、蔓《つる》を解こうと手を懸ける。胸を引いて頭《つむり》を掉《ふ》るから、葉を引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひきむし》って、私は涙を落しました。
(私なんざ構わんから。)
(いいえ、こうしてまで誓を立てぬと、私は貴下を殺すことを、自分でも制し切れない。一夜《ひとよ》冥土《めいど》へ留めました。お生きなさいまし、新《あらた》にお存《なが》らえ遊ばせ。)
 と、目を潤《うる》ましたが凜々《りり》しく云う。
(たとい、しばらくの辛抱でも。男を呪詛《のろ》う気のないのは、お綾さんにも幸福《しあわせ》です。そうしておおきなさいまし。)
 と、貴婦人が、金剛杖も一所に渡した。
 膝さがりに荷を下げて、杖を抱いてしょんぼり立つのを……
(さようなら、御機嫌よう。)
(はっ、)
 と言って土間へ出たが、振返ると、若い女《ひと》は泣いていました。露が閃《きら》めく葉を分けて、明石に透いた素膚《すはだ》を焼くか、と鬼百合が赫《かっ》と紅《あか》い。
 その時、峰はずれに、火の矢のように、颯《さっ》と太陽の光が射《さ》した。貴婦人が袖を翳《かざ》して、若い女を庇《かば》いました。……
 あの、鬼の面は、昨夜《ゆうべ》、貴下を罵《ののし》るトタンに、婦《おんな》を驚かすまいと思って、夢中で投げたが――驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人を睨《にら》むよう、濶《かっ》と眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、紫の緒で、真面《まむき》に引掛《ひっかか》っていたのです。……
 お先達、私はどうしたら可《い》いでしょう。」
 と溜息《ためいき》を一度に吐《つ》く――
「ふう、」
 と一時《いっとき》に返事をして、ややあって、
「鬼神に横道はござらんな。」
 と山伏も目を瞬《しばたた》いた。
 で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日と経《た》たぬに、飢《うえ》もしよう、渇きもしよう、炎天に曝《さら》されよう。が、旅人があって、幸《さいわい》に通るとすると、それは直ちに犠牲《にえ》になる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
 心を山伏に語ると、先達も拳《こぶし》を握って、不束《ふつつか》ながら身命に賭けて諸共《もろとも》にその美女《たおやめ》を説いて、悪《あし》き心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽手水《うがいちょうず》して、明王の前に額着《ぬかづ》いて、やがて、相並んで、日を正射《まとも》に、白い、眩《まばゆ》い、峠を望んで進んだ。
 雲から吐出されたもののように、坂に突伏《つっぷ》した旅人《りょじん》が一人。
 ああ、犠牲《にえ》は代った。
 扶《たす》け起こすと、心なき旅人《たびびと》かな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、躓《つまず》いて転んだはずみに、あれと喚《わめ》く。膝から股《また》へ真白《まっしろ》な通草《あけび》のよう、さくり切れたは、俗に鎌鼬《かまいたち》が抓《か》けたと言う。間々ある事とか。
 先達が担いで引返《ひっかえ》した。
 石動の町の医師を託《ことづ》かりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓草《つるくさ》の絆《きずな》も断《た》ったろう……その美女《たおやめ》の、山の麓《ふもと》を辿《たど》ったのである。
[#地から1字上げ]明治四十一(一九〇八)年十一月



底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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