るや》かに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向《さしむか》って二人――年紀《とし》も同じ程な六十左右《むそじそこら》の婆々《ばば》が、暢気《のんき》らしく、我が背戸に出たような顔色《かおつき》して立っていた。
 山逕《さんけい》の磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《ぎょうかく》、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂《ずたずた》、裂目に草生い、割目に薄《すすき》の丈伸びたれば、蛇《へび》の衣《きぬ》を避《よ》けて行《ゆ》く足許《あしもと》は狭まって、その二人の傍《わき》を通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
 ト境の方に立ったのが、心持|身体《からだ》を開いて、頬《ほお》の皺《しわ》を引伸《ひんのば》すような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
 と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺《あたり》の白髪《しらが》が動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
 と聞いた時、境は早や二三間、前途《むこう》へ出ていた。
 で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎《とが》めるともなく、声高に饒舌《しゃべ》ったろう、――それにつけても、余り往来《ゆきき》のないのは知れた。
 けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧《もうろう》と立ったり、間近な崖へ影が射《さ》したり、背後《うしろ》からざわざわと芒《すすき》を掻分《かきわ》ける音がしたり、どうやら、件《くだん》の二人の媼《おうな》が、附絡《つきまと》っているような思《おもい》がした。ざっと半日の余、他《ほか》に人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。

       四

 蜩《ひぐらし》が谷になって、境は杉の梢《こずえ》を踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕《あら》わして、灰色に大《おおい》なる薄墨《うすずみ》の斑《まだら》を交え、動かぬ稲妻を畝《うね》らした状《さま》は凄《すさま》じい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓《りんかく》は、霄《おおぞら》との劃《くぎり》を蒼《あお》く、どこともなく嵐気《らんき》が迫って、幽《かすか》な谷川の流《ながれ》の響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
 また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠里《とおざと》の果《はて》なる海の上に、落ち行《ゆ》く日の紅《くれない》のかがみに映って、そこに蟠《わだかま》った雲の峰は、海月《くらげ》が白く浮べる風情。蟻を列《なら》べた並木の筋に……蛙のごとき青田《あおた》の上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓《やぐら》、遠きは狼煙《のろし》の余波《なごり》に似て、ここにある身は紙鳶《たこ》に乗って、雲の桟《かけはし》渡る心地す。
 これから前《さき》は、坂が急に嶮《けわし》くなる。……以前車の通った時も、空《から》でないと曳上《ひきあ》げられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形《やげんがた》に崩込《くずれこ》んで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直《まっすぐ》に杖《つえ》ついた洋傘《こうもり》と、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓《つたかずら》も葉の裏を見上げるように這懸《はいかか》る。
 それは可《い》い。
 かほどの処を攀上《よじのぼ》るのに、あえて躊躇《ちゅうちょ》するのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止《せきと》められた仔細《しさい》がある。
 山の中の、かかる処に、流灌頂《ながれかんちょう》ではよもあるまい。路の左右と真中《まんなか》へ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡《ゆいわた》したのが、目の前を遮った、――麓《ふもと》のものの、何かの禁厭《まじない》かとも思ったが、紅紙《べにがみ》をさした箸《はし》も無ければ、強飯《こわめし》を備えた盆も見えぬ。
「可訝《おかし》いな。」
 考えるまでもない、手取《てっと》り早く有体《ありてい》に見れば、正にこれ、往来|止《どめ》。
 して見ると、先刻《さっき》、路を塞《ふさ》いで彳《たたず》んだ、媼《ばば》の素振《そぶり》も、通りがかりに小耳に挟んだ言《ことば》の端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
 が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
 もっとも時|経《た》ったか、竹も古びて、縄も中弛《なかだる》みがして、草に引摺《ひきず》る。跨《また》いで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
 前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、密《そっ》とその縄を取って曳《ひ》くと、等閑《なおざり》に土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰《たぐ》られた。慌てて放して、後へ退《さが》った。――一対の媼《ばば》が、背後《うしろ》で見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
 いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙動《ふるまい》は、われわれ人間としては尋常事《ただごと》ではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、蝗《いなご》が飛ぶほどでもなかろう。
 境は、今の騒ぎで、取落した洋傘《こうもり》の、寂しく打倒《ぶったお》れた形さえ、まだしも娑婆《しゃば》の朋達《ともだち》のような頼母《たのも》しさに、附着《くッつ》いて腰を掛けた。
 峰から落し、谷から推《お》して、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一刷《ひとはけ》刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
 日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単衣《ひとえ》の縞《しま》の、くっきりと鮮明《あざやか》になるのも心細い――山路に人の小ささよ。
 蜻蛉《とんぼ》でも来て留まれば、城の逆茂木《さかもぎ》の威厳を殺《そ》いで、抜いて取っても棄《す》つべきが、寂寞《じゃくまく》として、三本竹、風も無ければ動きもせず。
 蜩《ひぐらし》の声がする…………

       五

 カラカラと谺《こだま》して、谷の樹立《こだち》を貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰の方《かた》でカラカラとまた声が響く。
 と、蜩の声ばかりでなく、新《あらた》に鐸《すず》の音《ね》が起ったのである。
 ちりりんりんと――しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼母《たのも》しかった。峠には人が居る。
 その実、山霊が奏《かな》でるので、次第々々に雲の底へ、高く消えて行《ゆ》く類《たぐい》の、深秘な音楽ではあるまいか、と覚束《おぼつか》なさに耳を澄ますと、確《たしか》に、しかも、段々に峰から此方《こなた》に近くなる。
 蜩がそれに競わんとするごとく、また頻《しきり》に鳴き出す――足許《あしもと》の深い谷から、その銀《しろがね》の鈴を揺上《ゆりあ》げると、峠から黄金《こがね》の鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行交《ゆきか》うあたりは、目に見えぬ木《こ》の葉が舞い、霧が降る。
 涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、蜩《ひぐらし》の、と聞き紛《まが》うまで恍惚《うっとり》となった。目前《めのさき》に、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
「わっ。」
 と云って、境は驚駭《おどろき》の声を揚げた。
 遮る樹立の楯《たて》もあらず、霜夜に凍《い》てたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
「ほう――」
 と梟《ふくろ》のような声を発した。面《つら》赭黒《あかぐろ》く、牙《きば》白く、両の頬に胡桃《くるみ》を噛《か》み破《わ》り、眼《まなこ》は大蛇《おろち》の穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄螺《さざえ》を並べたよう。耳まで裂けた大口を開《あ》いて、上から境を睨《ね》め着けたが、
「これは、」
 と云う時、かっしと片腕、肱《ひじ》を曲げて、その蟹《かに》の甲羅《こうら》を面形《めんがた》に剥《は》いで取った。
 四十余りの総髪《そうがみ》で、筋骨|逞《たく》ましい一漢子《いっかんし》、――またカラカラと鳴った――鐸の柄を片手に持換えながら、
「思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。」
 と一揖《いちゆう》して、
「面です……はははは面でござる。」
 と緒を手首に、可恐《おそろし》い顔は俯向《うつむ》けに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいその厳《おごそか》さ。逞ましい漢《おのこ》の手にもずしりとする。
「お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。」
「はあ、」
 と云うと、一刎《ひとは》ね刎ねたままで、弾機《ぜんまい》が切れたようにそこに突立《つった》っていた身構《みがまえ》が崩れて、境は草の上へ投膝《なげひざ》で腰を落して、雲が日和下駄《ひよりげた》穿《は》いた大山伏を、足の爪尖《つまさき》から見上げて黙る。
「別に、お怪我《けが》は?」
 手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
「怪我なんぞ。」
 境は我ながら可笑《おかし》くなって、
「生命《いのち》にも別条はありません。」
「重畳《ちょうじょう》でござる。」
 と云う、落着いて聞くと、声のやや掠《かす》れた人物。
「しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下《あなた》は、これから、」
「さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺《あなた》はな。」
 境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂の葎《むぐら》に、竹はすっくと立っている。

       六

「ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい――が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、」
 境の前に蹲《しゃが》んだ時、山伏は行衣《ぎょうえ》の胸に堆《うずたか》い、鬼の面が、襟許《えりもと》から片目で睨《にら》むのを推入《おしい》れなどして、
「実は、貴辺《あなた》よりも私《てまえ》がお恥かしい。臆病《おくびょう》から致いてかようなものを持出しましたで。
 それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石動《いするぎ》から取附《とッつき》の上《のぼ》り口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
 仔細《しさい》あって、私《てまえ》は、この坂を貴辺《あなた》、真暗三宝《まっくらさんぼう》駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がお在《いで》なさる姿さえ心着かなんだでござります。
 が、あちらのは、風説《うわさ》にも聞きますれば、私《てまえ》も見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山籠《やまごも》りを致しております。」
 不動堂の先達だと云う。それでその鐸《すず》も、雲のような行衣も解《よ》めた。
「御免下され、」
 とここで、鐸を倒《さかさま》に腰にさして、袂《たもと》から、ぐったりした、油臭い、叺《かます》の煙草入《たばこいれ》を出して、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》を、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻莨《まきたばこ》で、吸附けながら、
「赫《かっ》と気ばかり上《のぼ》って、ざっと一日、好《すき》な煙草もよう喫《の》みません。世に推事《おしごと》というは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪《こら》えるでござりましょうが、好事《ものずき》半分の生兵法《なまびょうほう》、豪《えら》く汗を掻《か》きました。」
「峠に何事があったんですか。」
「されば。」
 すぱすぱと二三服、さも旨《うま》そうに立続けに行者は、矢継早に乙矢《おとや》を番《つが》えて、
「――ござい
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