《かぶ》さっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更|遁出《にげだ》そうッたって隙《すき》があるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静《じっ》としていられないから、手近の障子をがたりと勢《いきおい》よく開けました。……何か命令をされたようで、自分|気儘《きまま》には、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
 すると貴下《あなた》、何とその横縁に、これもまた吃驚《びっくり》だ。私のいかがな麦藁帽《むぎわらぼう》から、洋傘《こうもり》、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下《あなた》が打棄《うっちゃ》っておいでなすったと聞きました、その金剛杖《こんごうづえ》まで、一揃《ひとそろい》、驚いたものの目には、何か面当《つらあて》らしく飾りつけたもののように置いてある。……」
 山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音《あしおと》が響いて来て、浅茅生《あさぢう》を颯々《さっさっ》、沓脚《くつぬぎ》で、カタリと留《や》むと、所在紛らし、谷の上の靄《もや》を視《なが》めて縁に立った、私の直ぐ背後《うしろ》で、衣摺《きぬず》れが、はらりとする。
 小さな咳《しわぶき》して、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望《ながめ》になりますよ。)
 と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗《のぞ》くように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向《うつむ》いた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺《あおがいずり》の櫛が晃《きら》めく、鬢《びん》も撫《なで》つけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極《き》まった、小取廻《こどりまわ》しの姿の好《よ》さ。よろけ縞《じま》の明石《あかし》を透いて、肩から背《せな》がふっくりと白かった――若い方の婦人《おんな》なんです。
 お馴染《なじみ》の貴婦人だとばかり、不意を喰《くら》って、
(いらっしゃい。)
 と調子を外ずして、馬鹿な言《こと》を、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠《てれかく》しに勢《いきおい》よく煙草盆《たばこぼん》の前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
 莞爾《にっこり》して顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、瞼《まぶた》をほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
(とんでもない。)
 と突《つん》のめるように巻煙草を火入《ひいれ》に入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
(お火が消えましたかしら。)
 とちょっと翳《かざ》した、火入れは欠けて燻《くす》ぶったのに、自然木《じねんぼく》を抉抜《くりぬき》の煙草盆。なかんずく灰吹《はいふき》の目覚しさは、……およそ六貫目|掛《がけ》の筍《たけのこ》ほどあって、縁《へり》の刻々《ささら》になった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
 何の、火は赤々とあって、白魚《しらお》に花が散りそうでした。
 やっと煙《けむ》のような煙《けむり》を吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一颪《ひとおろし》颯《さっ》と吹込む。
 と胸をずらして、燈《あかり》を片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちの紅《くれない》は薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
(おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出には颯《さっ》といってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。)
 と燈《あかり》を背《せな》に、縁の端へ仰向《あおむ》いた顔で恍惚《うっとり》する。
(栗の林へ鵲《かささぎ》の橋が懸《かか》りました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃々《きらきら》と、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。)
(ほとんど仙境《せんきょう》。)
 と私は手を支《つ》いて摺《ず》って出ました。
(まるで、人間界を離れていますね。)
 ……お先達、私のこう言ったのはどうです。」
 急に問われて、山伏は、
「ははあ、」
 と言う。

       二十五

「驚駭《おどろき》に馴《な》れて、いくらか度胸も出来たと見え、内々|諷《ふう》する心持もあったんですね。
 直ぐには答えないで、手捌《てさば》きよく茶を注《つ》いで、
(粗《ひど》いんですよ。)
 と言う、自分の湯呑《ゆのみ》で、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥加《みょうが》至極。も一つ唐草《からくさ》の透《すか》し模様の、硝子《ビイドロ》の水呑が俯向《うつむ》けに出ていて、
(お暑いんですから、冷水《おひや》がお宜《よろ
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