、膝を頭《ず》の上へ立てて、蠢《うご》めいた頤髯《あごひげ》のある立派な紳士は、附元《つけもと》から引断《ひきき》れて片足ない、まるで不具《かたわ》の蟋蟀《きりぎりす》。
もう、一面に算を乱して、溝泥《どぶどろ》を擲附《たたきつ》けたような血《のり》の中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。――
いつの間にか、障子が透《す》けて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦朧《もうろう》と灰色の磔柱《はりつけばしら》が露《あら》われて、アノ胸を突反《つきそ》らして、胴を橋に、両手を開いて釣下《つりさが》ったのは、よくある基督《キリスト》の体《てい》だ。
床柱と思う正面には、広い額の真中《まんなか》へ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真蒼《まっさお》に黄色い眼《まなこ》を赫《かっ》と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く、この俤《おもかげ》は、話にある幽霊船《ゆうれいぶね》の船長《ふなおさ》にそっくり。
大俎《おおまないた》がある、白刃《しらは》が光る、筏《いかだ》のように槍《やり》を組んで、まるで地獄の雛壇《ひなだん》です。
どれも抱着《だきつ》きもせず、足へも縋《すが》らぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後退《あとじさ》りになって、ドンと突当ったまま、蹌踉《よろ》けなりに投出されたように浅茅生《あさぢう》へ出た。
(はああ。)
と息を引いた、掌《てのひら》へ、脂《あぶら》のごとく、しかも冷い汗が、総身《そうみ》を絞って颯《さっ》と来た。
例の草清水《くさしみず》がありましょう。
日蝕《にっしょく》の時のような、草の斑《まだら》に黒い、朦《もう》とした月明りに、そこに蹲《しゃが》んだ男がある。大形の浴衣の諸膚脱《もろはだぬぎ》で、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへ投《ほう》った、絹の手巾《ハンケチ》を引伸《ひんの》しながら、ぐいぐいと背中を拭《ふ》いている。
これは人間らしいと、一足寄って、
(君……)
と掠《かす》れた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、瓶《かめ》のようで、胴中《どうなか》ばかり。
(首はないが交際《つきあ》うけえ。)
と、野太い声で怒鳴《どな》られたので、はっと思うと、私も仰向《あおむ》けに倒れたんです。
やがて、気のついた時は、少《わか》い人の膝枕で、貴婦人が私の胸を撫でていました。」
三十三
「お先達、そこで二人して交《かわ》るがわる話しました。――峠の一軒家を買取ったのは、貴婦人なんです。
これは当時石川県のある顕官《けんかん》の令夫人、以前は某《なにがし》と云う一時富山の裁判長だった人の令嬢で、その頃この峠を越えて金沢へ出て、女学校に通っていたのが、お綾と云う、ある蒔絵師《まきえし》の娘と一つ学校で、姉妹のように仲が好《よ》かったんだそうです。
対手《さき》は懺悔《ざんげ》をしたんですが、身分を思うから名は言いますまい。……貴婦人は十八九で、もう六七人|情人《じょうじん》がありました。多情な女で、文ばかり通わしているのや、目顔で知らせ合っただけなのなんぞ――その容色《きりょう》でしかも妙齢《としごろ》、自分でも美しいのを信じただけ、一度|擦違《すれちが》ったものでも直ぐに我を恋うると極《き》めていたので――胸に描いたのは幾人だか分らなかった。
罪の報《むくい》か。男どもが、貴婦人の胸の中で掴《つか》み合いをはじめた。野郎が恐らくこのくらい気の利かない話はない。惚《ほ》れた女の腹の中で、じたばたでんぐり返しを打って騒ぐ、噛《か》み合う、掴み合う、引掻《ひっか》き合う。
この騒ぎが一団《ひとかたまり》の仏掌藷《つくねいも》のような悪玉《あくだま》になって、下腹から鳩尾《みずおち》へ突上げるので、うむと云って歯を喰切《くいしば》って、のけぞるという奇病にかかった。
はじめの内は、一日に、一度二度ぐらいずつで留《とま》ったのが、次第に嵩《こう》じて、十回以上、手足をぶるぶると震わして、人事不省で、烈《はげ》しい痙攣《けいれん》を起す容体だけれども、どこもちっとも痛むんじゃない。――ただ夢中になって反っちまって、白い胸を開けて見ると、肉へ響いて、団《かたまり》が動いたと言います。
三度五度は訳も解らず、宿のものが回生剤《きつけ》だ、水だ、で介抱して、それでまた開きも着いたが、日一日数は重なる。段々開きが遅くなって、激《はげし》い時は、半時も夢中で居る。夢中で居ながら、あれ、誰《た》が来て怨《うら》む、彼《か》が来て責める、咽喉《のど》を緊《し》める、指を折る、足を捻《ねじ》る、苦しい、と七転八倒。
情人が押懸けるんです。自分で口走るので、さては、と皆《み
前へ
次へ
全35ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング