夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]《もう》となった。
 が、ここだ、と一番《ひとつ》、三盃《さんばい》の酔《よい》の元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
(夫人《おくさん》。)と遣った――
(生命《いのち》に別条はありませんでしょうな。)
 卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとく浴《あび》せたんです。
 笑うか、打《ぶ》つか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私を視《み》て、
(ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。)
 と判然《きっぱり》言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔が蒼《あお》く、なぜか目の色が光るようで、羅《うすもの》の縞《しま》もきりりと堅く引緊《ひきしま》って、くっきり黒くなったのに、悚然《ぞっと》すると、身震《みぶるい》がして酔が醒《さ》めた。
(ええ!)
 しばらくして、私は両手を支《つ》かないばかりに、
(申訳がありません。)
 でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手を掉《ふ》って、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
(どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。)
 と方《かた》なしに頭《つむり》を下げた。
(さあ。)
 と大事に居直って、
(それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴下《あなた》お厭《いや》でしょう。)
 私は目ばかり働いた。
(ですが、あの通り美しいのに、貴下にお願《ねがい》があると云って、衣物《きもの》も着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不可《いけ》ませんか、お可厭《いや》らしいのねえ。)
 と歎息をされたのには、私もと胸《むね》を吐《つ》きました。……」

       三十

「ちょいと二人とも言《ことば》が途絶えた。
(ですがね、貴下《あなた》、無理にも発程《たっ》てお帰り遊ばそうとするのは――それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。)
 と居座《いずまい》を開いて、庭を見ながら、
(よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。)
 話は切れたんです、少《わか》い人が、いそいそ入って来ましたから。……
 ところで、俯向《うつむ》いていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私には敵《かたき》らしい少《わか》い人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対向《さしむか》いになると、凄《すご》いようで、おのずから五体が緊《しま》る、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
 まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、私《わたくし》ども二人して、と確《たしか》に言った。
 すると、……二人とも味方なのか、それとも敵《かたき》なのか、どれが鬼で、いずれが菩薩《ぼさつ》か、ちっとも分りません。
 分らずじまいに、三人で鮨《すし》を食べた。茶話に山吹も出れば、巴《ともえ》も出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五色《ごしき》の礫《こいし》、==月かなし==という芭蕉《ばしょう》の碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気に留《とま》った事があります。
 少《わか》い女が持出した、金蒔絵《きんまきえ》の大形の見事な食籠《じきろう》……形《がた》の菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨形《すみがた》の落雁《らくがん》が入れてありました。ところで、蓋《ふた》から身をかけて、一面に蒔《ま》いた秋草が実に見事で、塗《ぬり》も時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見惚《みと》れるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつで空《から》になると、その底に、何にもない漆《うるし》の中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイと髯《ひげ》を立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余り佳《い》いから、あっ、と賞《ほ》めると、貴婦人が、ついした風で、
(これは、お綾さんのお父《とっ》さんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、)
 と言いかける、と、目配せをした目が衝《つ》と動いた。少《わか》いのはまた颯《さっ》と瞼《まぶた》を染めたんです。
 で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心を安《やすん》じたは可《い》いが――寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻吟《う
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