》もせず、蒼《あお》い火も吹出さず、大釜《おおがま》に湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿鼻叫喚《あびきょうかん》が風の繞《めぐ》るごとくに響くと聞く……さては……少《わか》い女が先刻《さっき》――
(ここは地獄ですもの。)
と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、抉《えぐ》られた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻吟《うめ》く。
とても堪《たま》らん。
気のせいで、浅茅生を、縁近《えんぢか》に湧出《わきで》る水の月の雫《しずく》が点滴《したた》るか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻唸《うな》り出す――数百《すひゃく》の虫が一斉《いっとき》に離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合目《あわせめ》から溢出《はみだ》そう。
幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処――その一方だけは可厭《いや》な声がまだ憑着《とりつ》きません。おお! 事ある時は、それから母屋へ遁《に》げよ、という、一条《ひとすじ》の活路なのかも料《はか》られん。……
お先達、」
と大息ついて、
「……こう私が考えたには、所説《いわれ》があります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。――先刻《さっき》、――
(だって、山蟻の附着《くッつ》いてる身体《からだ》ですもの。)
で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。――そこへ、
(お綾さん、これなのかい。)
と声を掛けて、貴婦人が、衝《つ》と入って来たのでした。……片手に、あの、蒔絵《まきえ》ものの包《つつみ》を提げて、片手に小《ちいさ》な盆を一個《ひとつ》。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝子盃《コップ》を伏せて、真緑《まみどり》で透通る、美しい液体の入った、共口の壜《びん》が添って、――三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
(ああ、それなの、憚《はばか》りさま。)
と少《わか》いのが言うと、
(手の着かないのは無いようね。)
と緑の露の映る手で
前へ
次へ
全70ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング