星あかり
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何故《なにゆえ》という

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西鎌倉|乱橋《みだればし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き
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 もとより何故《なにゆえ》という理《わけ》はないので、墓石の倒れたのを引摺寄《ひきずりよ》せて、二ツばかり重ねて台にした。
 その上に乗って、雨戸《あまど》の引合《ひきあわ》せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開《あ》きそうにもない。雨戸の中《うち》は、相州西鎌倉|乱橋《みだればし》の妙長寺《みょうちょうじ》という、法華《ほっけ》宗の寺の、本堂に隣《とな》った八畳の、横に長い置床《おきどこ》の附いた座敷で、向って左手《ゆんで》に、葛籠《つづら》、革鞄《かばん》などを置いた際《きわ》に、山科《やましな》という医学生が、四六《しろく》の借蚊帳《かりかや》を釣って寝て居るのである。
 声を懸けて、戸《と》を敲《たた》いて、開けておくれと言えば、何の造作《ぞうさ》はないのだけれども、止《よ》せ、と留《と》めるのを肯《き》かないで、墓原《はかはら》を夜中に徘徊《はいかい》するのは好《いい》心持《こころもち》のものだと、二ツ三ツ言争《いいあらそ》って出《で》た、いまのさき、内《うち》で心張棒《しんばりぼう》を構えたのは、自分を閉出《しめだ》したのだと思うから、我慢にも恃《たの》むまい。……
 冷《つめた》い石塔《せきとう》に手を載せたり、湿臭《しめりくさ》い塔婆《とうば》を掴《つか》んだり、花筒《はなづつ》の腐水《くされみず》に星の映るのを覗《のぞ》いたり、漫歩《そぞろあるき》をして居たが、藪《やぶ》が近く、蚊《か》が酷《ひど》いから、座敷の蚊帳が懐しくなって、内へ入ろうと思ったので、戸を開けようとすると閉出されたことに気がついた。
 それから墓石に乗って推《お》して見たが、原《もと》より然《そ》うすれば開《あ》くであろうという望《のぞみ》があったのではなく、唯《ただ》居《い》るよりもと、徒《いたず》らに試みたばかりなのであった。
 何《なん》にもならないで、ばたりと力なく墓石から下りて、腕を拱《こまぬ》き、差俯向《さしうつむ》いて、じっとして立って居ると、しっきりなしに蚊が集《たか》る。毒虫が苦しいから、もっと樹立《こだち》の少い、広々とした、うるさくない処をと、寺の境内《けいだい》に気がついたから、歩き出して、卵塔場《らんとうば》の開戸《ひらきど》から出て、本堂の前に行った。
 然《さ》まで大きくもない寺で、和尚と婆《ばあ》さんと二人で住む。門まで僅《わず》か三四|間《けん》、左手《ゆんで》は祠《ほこら》の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹《まつばぼたん》、鬼百合《おにゆり》、夏菊《なつぎく》など雑植《まぜうえ》の繁った中に、向日葵《ひまわり》の花は高く蓮《はす》の葉の如《ごと》く押被《おっかぶ》さって、何時《いつ》の間《ま》にか星は隠れた。鼠色《ねずみいろ》の空はどんよりとして、流るる雲も何《なん》にもない。なかなか気が晴々《せいせい》しないから、一層《いっそ》海端《うみばた》へ行って見ようと思って、さて、ぶらぶら。
 門の左側に、井戸が一個《ひとつ》。飲水《のみみず》ではないので、極《きわ》めて塩ッ辛いが、底は浅い、屈《かが》んでざぶざぶ、さるぼうで汲《く》み得《え》らるる。石畳《いしだたみ》で穿下《ほりおろ》した合目《あわせめ》には、このあたりに産する何とかいう蟹《かに》、甲良《こうら》が黄色で、足の赤い、小さなのが数《かず》限《かぎり》なく群《むらが》って動いて居る。毎朝この水で顔を洗う、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思ってやめた。
 門を出ると、右左、二畝《ふたうね》ばかり慰みに植えた青田《あおた》があって、向う正面の畦中《あぜなか》に、琴弾松《ことひきまつ》というのがある。一昨日《おとつい》の晩《ばん》宵《よい》の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯《ともしび》が見《み》えたのを、海浜《かいひん》の別荘で花火を焚《た》くのだといい、否《いや》、狐火《きつねび》だともいった。その時《とき》は濡《ぬ》れたような真黒な暗夜《やみよ》だったから、その灯《ひ》で松の葉もすらすらと透通《すきとお》るように青く見えたが、今《いま》は、恰《あたか》も曇った一面の銀泥《ぎんでい》に描いた墨絵のようだと、熟《じっ》と見ながら、敷石《しきいし》を蹈《ふ》んだが、カラリカラリと日和下駄《ひよりげた》の音の冴《さ》えるのが
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