耳に入って、フと立留《たちとま》った。
門外《おもて》の道は、弓形《ゆみなり》に一条《ひとすじ》、ほのぼのと白く、比企《ひき》ヶ|谷《やつ》の山《やま》から由井《ゆい》ヶ|浜《はま》の磯際《いそぎわ》まで、斜《ななめ》に鵲《かささぎ》の橋を渡したよう也《なり》。
ハヤ浪の音が聞えて来た。
浜の方へ五六間進むと、土橋が一架《ひとつ》、並の小さなのだけれども、滑川《なめりがわ》に架《かか》ったのだの、長谷《はせ》の行合橋《ゆきあいばし》だのと、おなじ名に聞えた乱橋《みだればし》というのである。
この上で又《ま》た立停《たちとま》って前途《ゆくて》を見ながら、由井ヶ浜までは、未《ま》だ三町ばかりあると、つくづく然《そ》う考《かんが》えた。三町は蓋《けだ》し遠い道ではないが、身体《からだ》も精神も共に太《いた》く疲れて居たからで。
しかしそのまま素直《まっすぐ》に立ってるのが、余り辛《つら》かったから又た歩いた。
路《みち》の両側しばらくのあいだ、人家《じんか》が断《た》えては続いたが、いずれも寝静まって、白《しら》けた藁屋《わらや》の中に、何家《どこ》も何家《どこ》も人の気勢《けはい》がせぬ。
その寂寞《せきばく》を破《やぶ》る、跫音《あしおと》が高いので、夜更《よふけ》に里人《さとびと》の懐疑《うたがい》を受けはしないかという懸念から、誰《たれ》も咎《とが》めはせぬのに、抜足《ぬきあし》、差足《さしあし》、音は立てまいと思うほど、なお下駄《げた》の響《ひびき》が胸を打って、耳を貫《つらぬ》く。
何《なに》か、自分は世の中の一切《すべて》のものに、現在《いま》、恁《か》く、悄然《しょんぼり》、夜露《よつゆ》で重《おも》ッくるしい、白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》の、しおたれた、細い姿で、首《こうべ》を垂れて、唯一人、由井ヶ浜へ通ずる砂道を辿《たど》ることを、見《み》られてはならぬ、知られてはならぬ、気取《けど》られてはならぬというような思《おもい》であるのに、まあ! 廂《ひさし》も、屋根も、居酒屋の軒《のき》にかかった杉の葉も、百姓屋の土間《どま》に据《す》えてある粉挽臼《こなひきうす》も、皆目を以て、じろじろ睨《ね》めるようで、身《み》の置処《おきどころ》ないまでに、右から、左から、路《みち》をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなつて、おどおどして、その癖、駆《か》け出そうとする勇気はなく、凡《およ》そ人間の歩行に、ありッたけの遅さで、汗になりながら、人家のある処《ところ》をすり抜けて、ようよう石地蔵の立つ処。
ほッと息をすると、びょうびょうと、頻《しきり》に犬の吠《ほ》えるのが聞えた。
一つでない、二つでもない。三頭《みつ》も四頭《よつ》も一斉に吠え立てるのは、丁《ちょう》ど前途《ゆくて》の浜際《はまぎわ》に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋《あらものや》など一廓《ひとくるわ》になって居《い》るそのあたり。彼処《あすこ》を通抜《とおりぬ》けねばならないと思うと、今度は寒気《さむけ》がした。我ながら、自分を怪《あやし》むほどであるから、恐ろしく犬を憚《はばか》ったものである。進まれもせず、引返《ひきかえ》せば再び石臼《いしうす》だの、松の葉だの、屋根にも廂《ひさし》にも睨《にら》まれる、あの、この上《うえ》もない厭《いや》な思《おもい》をしなければならぬの歟《か》と、それもならず。静《じっ》と立ってると、天窓《あたま》がふらふら、おしつけられるような、しめつけられるような、犇々《ひしひし》と重いものでおされるような、切《せつ》ない、堪《たま》らない気がして、もはや! 横に倒れようかと思った。
処へ、荷車が一台、前方《むこう》から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被《ほおかぶり》をした百姓である。
これに夢が覚めたようになって、少し元気がつく。
曳《ひ》いて来たは空車《からぐるま》で、青菜《あおな》も、藁《わら》も乗って居はしなかったが、何故《なぜ》か、雪の下の朝市に行くのであろうと見て取ったので、なるほど、星の消えたのも、空が淀《よど》んで居るのも、夜明に間《ま》のない所為《せい》であろう。墓原《はかはら》へ出たのは十二時|過《すぎ》、それから、ああして、ああして、と此処《ここ》まで来《き》た間《あいだ》のことを心に繰返して、大分《だいぶん》の時間が経《た》ったから。
と思う内に、車は自分の前、ものの二三|間《げん》隔たる処から、左の山道《やまみち》の方へ曲った。雪の下へ行くには、来て、自分と摺《す》れ違って後方《うしろ》へ通り抜けねばならないのに、と怪《あやし》みながら見ると、ぼやけた色で、夜の色よりも少し白く見えた、車も、人も、山道《やまみち》の半《なかば》あたりでツイ目のさきにあるような、大き
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