、その癖、駆《か》け出そうとする勇気はなく、凡《およ》そ人間の歩行に、ありッたけの遅さで、汗になりながら、人家のある処《ところ》をすり抜けて、ようよう石地蔵の立つ処。
 ほッと息をすると、びょうびょうと、頻《しきり》に犬の吠《ほ》えるのが聞えた。
 一つでない、二つでもない。三頭《みつ》も四頭《よつ》も一斉に吠え立てるのは、丁《ちょう》ど前途《ゆくて》の浜際《はまぎわ》に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋《あらものや》など一廓《ひとくるわ》になって居《い》るそのあたり。彼処《あすこ》を通抜《とおりぬ》けねばならないと思うと、今度は寒気《さむけ》がした。我ながら、自分を怪《あやし》むほどであるから、恐ろしく犬を憚《はばか》ったものである。進まれもせず、引返《ひきかえ》せば再び石臼《いしうす》だの、松の葉だの、屋根にも廂《ひさし》にも睨《にら》まれる、あの、この上《うえ》もない厭《いや》な思《おもい》をしなければならぬの歟《か》と、それもならず。静《じっ》と立ってると、天窓《あたま》がふらふら、おしつけられるような、しめつけられるような、犇々《ひしひし》と重いものでおされるような、切《せつ》ない、堪《たま》らない気がして、もはや! 横に倒れようかと思った。
 処へ、荷車が一台、前方《むこう》から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被《ほおかぶり》をした百姓である。
 これに夢が覚めたようになって、少し元気がつく。
 曳《ひ》いて来たは空車《からぐるま》で、青菜《あおな》も、藁《わら》も乗って居はしなかったが、何故《なぜ》か、雪の下の朝市に行くのであろうと見て取ったので、なるほど、星の消えたのも、空が淀《よど》んで居るのも、夜明に間《ま》のない所為《せい》であろう。墓原《はかはら》へ出たのは十二時|過《すぎ》、それから、ああして、ああして、と此処《ここ》まで来《き》た間《あいだ》のことを心に繰返して、大分《だいぶん》の時間が経《た》ったから。
 と思う内に、車は自分の前、ものの二三|間《げん》隔たる処から、左の山道《やまみち》の方へ曲った。雪の下へ行くには、来て、自分と摺《す》れ違って後方《うしろ》へ通り抜けねばならないのに、と怪《あやし》みながら見ると、ぼやけた色で、夜の色よりも少し白く見えた、車も、人も、山道《やまみち》の半《なかば》あたりでツイ目のさきにあるような、大き
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