耳に入って、フと立留《たちとま》った。
 門外《おもて》の道は、弓形《ゆみなり》に一条《ひとすじ》、ほのぼのと白く、比企《ひき》ヶ|谷《やつ》の山《やま》から由井《ゆい》ヶ|浜《はま》の磯際《いそぎわ》まで、斜《ななめ》に鵲《かささぎ》の橋を渡したよう也《なり》。
 ハヤ浪の音が聞えて来た。
 浜の方へ五六間進むと、土橋が一架《ひとつ》、並の小さなのだけれども、滑川《なめりがわ》に架《かか》ったのだの、長谷《はせ》の行合橋《ゆきあいばし》だのと、おなじ名に聞えた乱橋《みだればし》というのである。
 この上で又《ま》た立停《たちとま》って前途《ゆくて》を見ながら、由井ヶ浜までは、未《ま》だ三町ばかりあると、つくづく然《そ》う考《かんが》えた。三町は蓋《けだ》し遠い道ではないが、身体《からだ》も精神も共に太《いた》く疲れて居たからで。
 しかしそのまま素直《まっすぐ》に立ってるのが、余り辛《つら》かったから又た歩いた。
 路《みち》の両側しばらくのあいだ、人家《じんか》が断《た》えては続いたが、いずれも寝静まって、白《しら》けた藁屋《わらや》の中に、何家《どこ》も何家《どこ》も人の気勢《けはい》がせぬ。
 その寂寞《せきばく》を破《やぶ》る、跫音《あしおと》が高いので、夜更《よふけ》に里人《さとびと》の懐疑《うたがい》を受けはしないかという懸念から、誰《たれ》も咎《とが》めはせぬのに、抜足《ぬきあし》、差足《さしあし》、音は立てまいと思うほど、なお下駄《げた》の響《ひびき》が胸を打って、耳を貫《つらぬ》く。
 何《なに》か、自分は世の中の一切《すべて》のものに、現在《いま》、恁《か》く、悄然《しょんぼり》、夜露《よつゆ》で重《おも》ッくるしい、白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》の、しおたれた、細い姿で、首《こうべ》を垂れて、唯一人、由井ヶ浜へ通ずる砂道を辿《たど》ることを、見《み》られてはならぬ、知られてはならぬ、気取《けど》られてはならぬというような思《おもい》であるのに、まあ! 廂《ひさし》も、屋根も、居酒屋の軒《のき》にかかった杉の葉も、百姓屋の土間《どま》に据《す》えてある粉挽臼《こなひきうす》も、皆目を以て、じろじろ睨《ね》めるようで、身《み》の置処《おきどころ》ないまでに、右から、左から、路《みち》をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなつて、おどおどして
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