拱《こまぬ》き、差俯向《さしうつむ》いて、じっとして立って居ると、しっきりなしに蚊が集《たか》る。毒虫が苦しいから、もっと樹立《こだち》の少い、広々とした、うるさくない処をと、寺の境内《けいだい》に気がついたから、歩き出して、卵塔場《らんとうば》の開戸《ひらきど》から出て、本堂の前に行った。
 然《さ》まで大きくもない寺で、和尚と婆《ばあ》さんと二人で住む。門まで僅《わず》か三四|間《けん》、左手《ゆんで》は祠《ほこら》の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹《まつばぼたん》、鬼百合《おにゆり》、夏菊《なつぎく》など雑植《まぜうえ》の繁った中に、向日葵《ひまわり》の花は高く蓮《はす》の葉の如《ごと》く押被《おっかぶ》さって、何時《いつ》の間《ま》にか星は隠れた。鼠色《ねずみいろ》の空はどんよりとして、流るる雲も何《なん》にもない。なかなか気が晴々《せいせい》しないから、一層《いっそ》海端《うみばた》へ行って見ようと思って、さて、ぶらぶら。
 門の左側に、井戸が一個《ひとつ》。飲水《のみみず》ではないので、極《きわ》めて塩ッ辛いが、底は浅い、屈《かが》んでざぶざぶ、さるぼうで汲《く》み得《え》らるる。石畳《いしだたみ》で穿下《ほりおろ》した合目《あわせめ》には、このあたりに産する何とかいう蟹《かに》、甲良《こうら》が黄色で、足の赤い、小さなのが数《かず》限《かぎり》なく群《むらが》って動いて居る。毎朝この水で顔を洗う、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思ってやめた。
 門を出ると、右左、二畝《ふたうね》ばかり慰みに植えた青田《あおた》があって、向う正面の畦中《あぜなか》に、琴弾松《ことひきまつ》というのがある。一昨日《おとつい》の晩《ばん》宵《よい》の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯《ともしび》が見《み》えたのを、海浜《かいひん》の別荘で花火を焚《た》くのだといい、否《いや》、狐火《きつねび》だともいった。その時《とき》は濡《ぬ》れたような真黒な暗夜《やみよ》だったから、その灯《ひ》で松の葉もすらすらと透通《すきとお》るように青く見えたが、今《いま》は、恰《あたか》も曇った一面の銀泥《ぎんでい》に描いた墨絵のようだと、熟《じっ》と見ながら、敷石《しきいし》を蹈《ふ》んだが、カラリカラリと日和下駄《ひよりげた》の音の冴《さ》えるのが
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