な、鮮《あざやか》な形で、ありのまま衝《つ》と消えた。
 今は最《も》う、さっきから荷車が唯《ただ》辷《すべ》ってあるいて、少しも轣轆《れきろく》の音の聞えなかったことも念頭に置かないで、早くこの懊悩《おうのう》を洗い流そうと、一直線に、夜明に間もないと考えたから、人憚《ひとはばか》らず足早《あしばや》に進んだ。荒物屋《あらものや》の軒下《のきした》の薄暗《うすくら》い処に、斑犬《ぶちいぬ》が一頭、うしろ向《むき》に、長く伸びて寝て居たばかり、事なく着いたのは由井ヶ浜である。
 碧水金砂《へきすいきんさ》、昼の趣《おもむき》とは違って、霊山《りょうぜん》ヶ|崎《さき》の突端《とっぱな》と小坪《こつぼ》の浜でおしまわした遠浅《とおあさ》は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるという蒼海原《あおうなばら》は、ささ濁《にごり》に濁《にご》って、果《はて》なくおっかぶさったように堆《うずだか》い水面は、おなじ色に空に連《つらな》って居る。浪打際《なみうちぎわ》は綿《わた》をば束《つか》ねたような白い波、波頭《なみがしら》に泡《あわ》を立てて、どうと寄《よ》せては、ざっと、おうように、重々《おもおも》しゅう、飜《ひるがえ》ると、ひたひたと押寄せるが如くに来る。これは、一秒に砂一|粒《りゅう》、幾億万年の後《のち》には、この大陸を浸《ひた》し尽そうとする処の水で、いまも、瞬間の後《のち》も、咄嗟《とっさ》のさきも、正《まさ》に然《しか》なすべく働いて居るのであるが、自分は余り大陸の一端が浪のために喰欠《くいか》かれることの疾《はや》いのを、心細く感ずるばかりであった。
 妙長寺に寄宿してから三十日ばかりになるが、先に来た時分とは浜が著《いちじる》しく縮まって居る。町を離れてから浪打際《なみうちぎわ》まで、凡《およ》そ二百歩もあった筈なのが、白砂《しらすな》に足を踏掛《ふみか》けたと思うと、早《は》や爪先《つまさき》が冷《つめた》く浪のさきに触れたので、昼間は鉄の鍋《なべ》で煮上げたような砂が、皆ずぶずぶに濡《ぬ》れて、冷《ひやっ》こく、宛然《さながら》網の下を、水が潜《くぐ》って寄せ来るよう、砂地に立ってても身体《からだ》が揺《ゆら》ぎそうに思われて、不安心でならぬから、浪が襲うとすたすたと後《あと》へ退《の》き、浪が返るとすたすたと前へ進んで、砂の上に唯一人やがて星一つない下に
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