済まないことをしましたので、神様、仏様にはどんな御罰《おばち》を蒙《こうむ》るか知れません。
憎らしい鼻の爺《じじい》は、それはそれは空恐ろしいほど、私の心の内を見抜いていて、日に幾たびとなく枕許《まくらもと》へ参っては、
(女《むすめ》、罪のないことは私《わし》がよう知っている、じゃが、心に済まぬ事があろう、私を頼め、助けてやる、)と、つけつまわしつ謂うのだそうで。
お米は舌を食い切っても爺の膝を抱くのは、厭《いや》と冠《かぶり》をふり廻すと申すこと。それは私も同一《おんなじ》だけれども、罪のないものが何を恐《こわ》がって、煩うということがあるものか。済まないというのは一体どんな事と、すかしても、口説いても、それは問わないで下さいましと、強いていえば震えます、頼むようにすりゃ泣きますね、調子もかわって目の色も穏《おだやか》でないようでございましたが、仕方がございません。で、しおしおその日は帰りまして、一杯になる胸を掻破《かきやぶ》りたいほど、私が案ずるよりあの女《こ》の容体は一倍で、とうとう貴方、前後が分らず、厭なことを口走りまして、時々、それ巡査《おまわり》さんが捕まえる、きゃっといって刎起《はねお》きたり、目を見据えましては、うっとりしていて、ああ、真暗《まっくら》だこと、牢へ入れられたと申しちゃあ泣くようになりました。そんな容子《ようす》で、一日々々、このごろでは目もあてられませんように弱りまして、ろくろく湯水も通しません。
何か、いろんな恐しいものが寄って集《たか》って苛《さいな》みますような塩梅《あんばい》、爺にさえ縋って頼めば、またお日様が拝まれようと、自分の口からも気の確《たしか》な時は申しながら、それは殺されても厭だといいまする。
神でも仏でも、尊い手をお延ばし下すって、早く引上げてやって頂かねば、見る中《うち》にも砂一粒ずつ地の下へ崩れてお米は貴方、旦那様。
奈落の底までも落ちて参りますような様子なのでございます。その上意地悪く、鼻めが沢井様へ入《い》り込みますこと、毎日のよう。奥様はその祈の時からすっかり御信心をなすったそうで、畳の上へも一件の杖をおつかせなさいますお扱い、それでお米の枕許をことことと叩いちゃあ、
(気分はどうじゃ、)といいますそうな。」
十七
お幾は年紀《とし》の功だけに、身を震わさないばかりであったが、
「いえ、もう下らないこと、くどくど申上げまして、よくお聞き遊ばして下さいました。昔ものの口不調法、随分御退屈をなすったでございましょう。他《ほか》に相談相手といってはなし、交番へ届けまして助けて頂きますわけのものではなし、また親類のものでも知己《ちかづき》でも、私《わたくし》が話を聞いてくれそうなものには謂いました処で思遣《おもいやり》にも何にもなるものじゃあございません、旦那様が聞いて下さいましたので、私は半分だけ、荷を下しましたように存じます。その御深切だけで、もう沢山なのでございますが、欲には旦那様何とか御判断下さいますわけには参りませんか。
こんな事を申しましてお聞上げ……どころか、もしお気に障りましては恐入りますけれども、一度旦那様をお見上げ申しましてからの、お米の心は私がよく存じております。囈言《うわごと》にも今度のその何か済まないことやらも、旦那様に対してお恥かしいことのようでもございますが、仂《はした》ない事を。
飛んだことをいう奴だと思し召しますなら、私だけをお叱り下さいまして、何にも知りませんお米をおさげすみ下さいますなえ。
それにつけ彼《か》につけましても時ならぬこの辺へ、旦那様のお立寄遊ばしたのを、私はお引合せと思いますが、飛んだ因縁だとおあきらめ下さいまして、どうぞ一番《ひとつ》一言《ひとこと》でも何とか力になりますよう、おっしゃっては下さいませんか。何しろ煩っておりますので、片時でもほッという呼吸《いき》をつかせてやりたく存じますが、こうでございます、旦那様お見かけ申して拝みまする。」と言《ことば》も切に声も迫って、両眼に浮べた涙とともに真《まこと》は面《おもて》にあふれたのである。
行懸《ゆきがか》り、言《ことば》の端、察するに頼母《たのも》しき紳士と思い、且つ小山を婆《ばば》が目からその風采《ふうさい》を推して、名のある医士であるとしたらしい。
正に大審院に、高き天を頂いて、国家の法を裁すべき判事は、よく堪えてお幾の物語の、一部始終を聞き果てたが、渠《かれ》は実際、事の本末《もとすえ》を、冷《ひやや》かに判ずるよりも、お米が身に関する故をもって、むしろ情において激せざるを得なかったから、言下《ごんか》に打出して事理を決する答をば、与え得ないで、
「都を少しでも放れると、怪《け》しからん話があるな、婆さん。」とばかり吐息《といき》とともにいったのであるが、言外おのずからその明眸《めいぼう》の届くべき大審院の椅子の周囲、西北《さいほく》三里以内に、かかる不平を差置くに忍びざる意気があって露《あらわ》れた。
「どうぞまあ、何は措《お》きましてともかくもう一服遊ばして下さいまし、お茶も冷えてしまいました。決してあの、唯今のことにつきましておねだり申しますのではございません、これからは茶店を預ります商売|冥利《みょうり》、精一杯の御馳走《ごちそう》、きざ柿でも剥《む》いて差上げましょう。生の栗がございますが、お米が達者でいて今日も遊びに参りましたら、灰に埋《うず》んで、あの器用な手で綺麗にこしらえさして上げましょうものを。……どうぞ、唯今お熱いお湯を。旦那様お寒くなりはしませんか。」
今は物思いに沈んで、一秒《いっセコンド》の間に、婆が長物語りを三たび四たび、つむじ風のごとく疾《と》く、颯《さっ》と繰返して、うっかりしていた判事は、心着けられて、フト身に沁む外《と》の方《かた》を、欄干|越《ごし》に打見遣《うちみや》った。
黄昏《たそがれ》や、早や黄昏は森の中からその色を浴びせかけて、滝を蔽《おお》える下道を、黒白《あやめ》に紛るる女の姿、縁《えにし》の糸に引寄せられけむ、裾も袂《たもと》も鬢《びん》の毛も、夕《ゆうべ》の風に漂う風情。
十八
「おお、あれは。」
「お米でございますよ、あれ、旦那様、お米さん、」と判事にいうやら、女《むすめ》を呼ぶやら。お幾は段を踏辷《ふみすべ》らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干《てすり》の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝《つ》と来たお米、素足のままで、細帯《ほそおび》ばかり、空色の袷《あわせ》に襟のかかった寝衣《ねまき》の形《なり》で、寝床を脱出《ぬけだ》した窶《やつ》れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただしく越そうとする敷居に爪先《つまさき》を取られて、うつむけさまに倒れかかって、横に流れて蹌踉《よろめ》く処を、
「あッ、」といって、手を取った。婆さんは背《せな》を支えて、どッさり尻をついて膝を折りざまに、お米を内へ抱え込むと、ばったり諸共に畳の上。
この煽《あお》りに、婆さんが座右の火鉢の火の、先刻《さっき》からじょう[#「じょう」に傍点]に成果てたのが、真白《まっしろ》にぱっと散って、女《むすめ》の黒髪にも婆さんの袖にもちらちらと懸《かか》ったが、直ぐに色も分かず日は暮れたのである。
「お米さん、まあ、」と抱いたまま、はッはッいうと、絶ゆげな呼吸《いき》づかい、疲果てた身を悶《もだ》えて、
「厭《いやッ》よう、つかまえられるよう。」
「誰に、誰につかまえられるんだよ。」
「厭ですよ、あれ、巡査《おまわり》さん。」
「何、巡査さんが、」と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉《も》んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。
「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」
お米はただ切なそうに、ああああというばかりであったが、急にまた堪え得ぬばかり、
「堪忍よう、あれ、」と叫んだ。
「堪忍をするから謝罪《あやま》れの。どこをどう狂い廻っても、私《わし》が目から隠れる穴はないぞの。無くなった金子《かね》は今日出たが、汝《うぬ》が罪は消えぬのじゃ。女《むすめ》、さあ、私《わし》を頼め、足を頂け、こりゃこの杖に縋《すが》れ。」と蚊の呻《うめ》くようなる声して、ぶつぶついうその音調は、一たび口を出でて、唇を垂れ蔽《おお》える鼻に入《い》ってやがて他の耳に来《きた》るならずや。異様なる持主は、その鼻を真俯向《まうつむ》けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土をことことと鳴《なら》していた。
「あれ。」打てば響くがごとくお米が身内はわなないた。
堪《たま》りかねて婆さんは、鼻に向って屹《きっ》と居直ったが、爺《じじい》がクンクンと鳴して左右に蠢《うご》めかしたのを一目見ると、しりごみをして固くお米を抱きながら竦《すく》んだ。
「杖に縋って早や助かれ。女《むすめ》やい、女、金子は盗まいでも、自分の心が汝《うぬ》が身を責殺すのじゃわ、たわけ奴めが、フン。我《わし》を頼め、膝を抱け、杖に縋れ、これ、生命《いのち》が無いぞの。」と洞穴の奥から幽《かすか》に、呼ぶよう、人間の耳に聞えて、この淫魔《いんま》ほざきながら、したたかの狼藉《ろうぜき》かな。杖を逆に取って、うつぶしになって上口《あがりぐち》に倒れている、お米の衣《きぬ》の裾をハタと打って、また打った。
「厭よ、厭よ、厭よう。」と今はと見ゆる悲鳴である。
「この、たわけ奴《め》の。」
段の上にすッくと立って、名家の彫像のごとく、目まじろきもしないで、一|場《じょう》の光景を見詰めていた黒き衣《きぬ》、白き面《おもて》、清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]《せいく》鶴に似たる判事は、衝《つ》と下りて、ずッと寄って、お米の枕頭《まくらもと》に座を占めた。
威厳犯すべからざるものある小山の姿を、しょぼけた目でじっと見ると、予言者の鼻は居所をかえて一足|退《すさ》った、鼻と共に進退して、その杖の引込《ひっこ》んだことはいうまでもなかろう。
目もくれず判事は静《しずか》にお米の肩に手を載《の》せた。
軽くおさえて、しばらくして、
「謂《い》うことが分るか、姉さん、分るかい、お前さんはね、紛失したというその五百円を盗みも、見もしないが、欲しいと思ったんだろうね。可《よ》し、欲しいと思った。それは深切なこの婆さんが、金子《かね》を頂かされたのを見て、あの金子が自分のものなら、老人《としより》のものにしたいと、……そうだ。そこを見込まれたのだ。何、妙なものに出会《でっくわ》して気を痛めたに違いなかろう。むむ、思ったばかり罪はないよ、たとい、不思議なものの咎《とがめ》があっても、私が申請けよう。さあ、しっかりとつかまれ。私が楯《たて》になって怪《あやし》いものの目から隠してやろう。ずっと寄れ、さあこの身体《からだ》につかまってその動悸《どうき》を鎮めるが可い。放すな。」と爽《さわや》かにいった言《ことば》につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。
「婆さん、明《あかり》を。」
飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯《ともしび》の影に、と見れば、予言者はくるりと背後《うしろ》向になって、耳を傾けて、真鍮《しんちゅう》の耳掻を悠々とつかいながら、判事の言《ことば》を聞澄しているかのごとくであった。
「安心しな、姉さん、心に罪があっても大事はない。私が許す、小山由之助だ、大審院の判事が許して、その証拠に、盗《ぬすみ》をしたいと思ったお前と一所になろう。婆さん、媒妁人《なこうど》は頼んだよ。」
迷信の深い小山夫人は、その後永く鳥獣の肉と茶断《ちゃだち》をして、判事の無事を祈っている。蓋《けだ》し当時、夫婦を呪詛《じゅそ》するという捨台辞《すてぜりふ》を残して、我《わが》言かくのごとく違《たが》わじと、杖をもって土を打つこと三た
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