ったが、
「いえ、もう下らないこと、くどくど申上げまして、よくお聞き遊ばして下さいました。昔ものの口不調法、随分御退屈をなすったでございましょう。他《ほか》に相談相手といってはなし、交番へ届けまして助けて頂きますわけのものではなし、また親類のものでも知己《ちかづき》でも、私《わたくし》が話を聞いてくれそうなものには謂いました処で思遣《おもいやり》にも何にもなるものじゃあございません、旦那様が聞いて下さいましたので、私は半分だけ、荷を下しましたように存じます。その御深切だけで、もう沢山なのでございますが、欲には旦那様何とか御判断下さいますわけには参りませんか。
 こんな事を申しましてお聞上げ……どころか、もしお気に障りましては恐入りますけれども、一度旦那様をお見上げ申しましてからの、お米の心は私がよく存じております。囈言《うわごと》にも今度のその何か済まないことやらも、旦那様に対してお恥かしいことのようでもございますが、仂《はした》ない事を。
 飛んだことをいう奴だと思し召しますなら、私だけをお叱り下さいまして、何にも知りませんお米をおさげすみ下さいますなえ。
 それにつけ彼《か》につけましても時ならぬこの辺へ、旦那様のお立寄遊ばしたのを、私はお引合せと思いますが、飛んだ因縁だとおあきらめ下さいまして、どうぞ一番《ひとつ》一言《ひとこと》でも何とか力になりますよう、おっしゃっては下さいませんか。何しろ煩っておりますので、片時でもほッという呼吸《いき》をつかせてやりたく存じますが、こうでございます、旦那様お見かけ申して拝みまする。」と言《ことば》も切に声も迫って、両眼に浮べた涙とともに真《まこと》は面《おもて》にあふれたのである。
 行懸《ゆきがか》り、言《ことば》の端、察するに頼母《たのも》しき紳士と思い、且つ小山を婆《ばば》が目からその風采《ふうさい》を推して、名のある医士であるとしたらしい。
 正に大審院に、高き天を頂いて、国家の法を裁すべき判事は、よく堪えてお幾の物語の、一部始終を聞き果てたが、渠《かれ》は実際、事の本末《もとすえ》を、冷《ひやや》かに判ずるよりも、お米が身に関する故をもって、むしろ情において激せざるを得なかったから、言下《ごんか》に打出して事理を決する答をば、与え得ないで、
「都を少しでも放れると、怪《け》しからん話があるな、婆さん。」とばかり吐息《といき》とともにいったのであるが、言外おのずからその明眸《めいぼう》の届くべき大審院の椅子の周囲、西北《さいほく》三里以内に、かかる不平を差置くに忍びざる意気があって露《あらわ》れた。
「どうぞまあ、何は措《お》きましてともかくもう一服遊ばして下さいまし、お茶も冷えてしまいました。決してあの、唯今のことにつきましておねだり申しますのではございません、これからは茶店を預ります商売|冥利《みょうり》、精一杯の御馳走《ごちそう》、きざ柿でも剥《む》いて差上げましょう。生の栗がございますが、お米が達者でいて今日も遊びに参りましたら、灰に埋《うず》んで、あの器用な手で綺麗にこしらえさして上げましょうものを。……どうぞ、唯今お熱いお湯を。旦那様お寒くなりはしませんか。」
 今は物思いに沈んで、一秒《いっセコンド》の間に、婆が長物語りを三たび四たび、つむじ風のごとく疾《と》く、颯《さっ》と繰返して、うっかりしていた判事は、心着けられて、フト身に沁む外《と》の方《かた》を、欄干|越《ごし》に打見遣《うちみや》った。
 黄昏《たそがれ》や、早や黄昏は森の中からその色を浴びせかけて、滝を蔽《おお》える下道を、黒白《あやめ》に紛るる女の姿、縁《えにし》の糸に引寄せられけむ、裾も袂《たもと》も鬢《びん》の毛も、夕《ゆうべ》の風に漂う風情。

       十八

「おお、あれは。」
「お米でございますよ、あれ、旦那様、お米さん、」と判事にいうやら、女《むすめ》を呼ぶやら。お幾は段を踏辷《ふみすべ》らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干《てすり》の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝《つ》と来たお米、素足のままで、細帯《ほそおび》ばかり、空色の袷《あわせ》に襟のかかった寝衣《ねまき》の形《なり》で、寝床を脱出《ぬけだ》した窶《やつ》れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただしく越そうとする敷居に爪先《つまさき》を取られて、うつむけさまに倒れかかって、横に流れて蹌踉《よろめ》く処を、
「あッ、」といって、手を取った。婆さんは背《せな》を支えて、どッさり尻をついて膝を折りざまに、お米を内へ抱え込むと、ばったり諸共に畳の上。
 この煽《あお》りに、婆さんが座右の火鉢の火の、先刻《さっき》からじょう[#「じょう」に傍点]に成果てたのが、真白《まっしろ》にぱっと散って、女《むす
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