め》の黒髪にも婆さんの袖にもちらちらと懸《かか》ったが、直ぐに色も分かず日は暮れたのである。
「お米さん、まあ、」と抱いたまま、はッはッいうと、絶ゆげな呼吸《いき》づかい、疲果てた身を悶《もだ》えて、
「厭《いやッ》よう、つかまえられるよう。」
「誰に、誰につかまえられるんだよ。」
「厭ですよ、あれ、巡査《おまわり》さん。」
「何、巡査さんが、」と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉《も》んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。
「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」
 お米はただ切なそうに、ああああというばかりであったが、急にまた堪え得ぬばかり、
「堪忍よう、あれ、」と叫んだ。
「堪忍をするから謝罪《あやま》れの。どこをどう狂い廻っても、私《わし》が目から隠れる穴はないぞの。無くなった金子《かね》は今日出たが、汝《うぬ》が罪は消えぬのじゃ。女《むすめ》、さあ、私《わし》を頼め、足を頂け、こりゃこの杖に縋《すが》れ。」と蚊の呻《うめ》くようなる声して、ぶつぶついうその音調は、一たび口を出でて、唇を垂れ蔽《おお》える鼻に入《い》ってやがて他の耳に来《きた》るならずや。異様なる持主は、その鼻を真俯向《まうつむ》けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土をことことと鳴《なら》していた。
「あれ。」打てば響くがごとくお米が身内はわなないた。
 堪《たま》りかねて婆さんは、鼻に向って屹《きっ》と居直ったが、爺《じじい》がクンクンと鳴して左右に蠢《うご》めかしたのを一目見ると、しりごみをして固くお米を抱きながら竦《すく》んだ。
「杖に縋って早や助かれ。女《むすめ》やい、女、金子は盗まいでも、自分の心が汝《うぬ》が身を責殺すのじゃわ、たわけ奴めが、フン。我《わし》を頼め、膝を抱け、杖に縋れ、これ、生命《いのち》が無いぞの。」と洞穴の奥から幽《かすか》に、呼ぶよう、人間の耳に聞えて、この淫魔《いんま》ほざきながら、したたかの狼藉《ろうぜき》かな。杖を逆に取って、うつぶしになって上口《あがりぐち》に倒れている、お米の衣《きぬ》の裾をハタと打って、また打った。
「厭よ、厭よ、厭よう。」と今はと見ゆる悲鳴である。
「この、たわけ奴《め》の。」
 段の上にすッくと立って、名家の彫像のごとく、目まじろきもしないで、一|場《じょう》の光景を見詰めていた黒き衣《きぬ》、白き面《おもて》、清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]《せいく》鶴に似たる判事は、衝《つ》と下りて、ずッと寄って、お米の枕頭《まくらもと》に座を占めた。
 威厳犯すべからざるものある小山の姿を、しょぼけた目でじっと見ると、予言者の鼻は居所をかえて一足|退《すさ》った、鼻と共に進退して、その杖の引込《ひっこ》んだことはいうまでもなかろう。
 目もくれず判事は静《しずか》にお米の肩に手を載《の》せた。
 軽くおさえて、しばらくして、
「謂《い》うことが分るか、姉さん、分るかい、お前さんはね、紛失したというその五百円を盗みも、見もしないが、欲しいと思ったんだろうね。可《よ》し、欲しいと思った。それは深切なこの婆さんが、金子《かね》を頂かされたのを見て、あの金子が自分のものなら、老人《としより》のものにしたいと、……そうだ。そこを見込まれたのだ。何、妙なものに出会《でっくわ》して気を痛めたに違いなかろう。むむ、思ったばかり罪はないよ、たとい、不思議なものの咎《とがめ》があっても、私が申請けよう。さあ、しっかりとつかまれ。私が楯《たて》になって怪《あやし》いものの目から隠してやろう。ずっと寄れ、さあこの身体《からだ》につかまってその動悸《どうき》を鎮めるが可い。放すな。」と爽《さわや》かにいった言《ことば》につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。
「婆さん、明《あかり》を。」
 飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯《ともしび》の影に、と見れば、予言者はくるりと背後《うしろ》向になって、耳を傾けて、真鍮《しんちゅう》の耳掻を悠々とつかいながら、判事の言《ことば》を聞澄しているかのごとくであった。
「安心しな、姉さん、心に罪があっても大事はない。私が許す、小山由之助だ、大審院の判事が許して、その証拠に、盗《ぬすみ》をしたいと思ったお前と一所になろう。婆さん、媒妁人《なこうど》は頼んだよ。」
 迷信の深い小山夫人は、その後永く鳥獣の肉と茶断《ちゃだち》をして、判事の無事を祈っている。蓋《けだ》し当時、夫婦を呪詛《じゅそ》するという捨台辞《すてぜりふ》を残して、我《わが》言かくのごとく違《たが》わじと、杖をもって土を打つこと三た
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