けるとって、植吉の女房《かみさん》はあたふた帰ってしまいました。何も悪気のある人ではなし、私とお米との仲を知ってるわけもないのでございますから、驚かして慰むにも当りません、お米は何にも知らないにしましても、いっただけのことはその日ありましたに違いないのでございますもの。
 私は寝られはいたしません。
 帰命頂来《きみょうちょうらい》! お米が盗んだとしますれば、私はその五百円が紛失したといいまする日に、耳を揃えて頂かされたのでございます。
 どんな顔をされまいものでもないと、口惜《くやし》さは口惜し、憎らしさは憎らし、もうもう掴《つか》みついて引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひきむし》ってやりたいような沢井の家の人の顔を見て、お米に逢いたいと申して出ました。」

       十六

「それも、行《ゆ》こうか行くまいかと、気を揉《も》んで揉抜いた揚句、どうも堪《たま》らなくなりまして思切って伺いましたので。
 心からでございましょう、誰の挨拶もけんもほろろに聞えましたけれども、それはもうお米に疑《うたがい》がかかったなんぞとは、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》にも出しませんで、逢って帰れ! と部屋へ通されましてございます。
 それでも生命《いのち》はあったか、と世を隔てたものにでも逢いますような心持。いきなり縋《すが》り寄って、寝ている夜具の袖へ手をかけますと、密《そっ》と目をあいて私《わたくし》の顔を見ましたっけ、三日四日が間にめっきりやつれてしまいました、顔を見ますと二人とも声よりは前《さき》へ涙なんでございます。
 物もいわないで、あの女《こ》が前髪のこわれた額際まで、天鵞絨《びろうど》の襟を引《ひっ》かぶったきり、ふるえて泣いてるのでございましょう。
 ようよう口を利かせますまでには、大概骨が折れた事じゃアありません。
 口説いたり、すかしたり、怨《うら》んでみたり、叱ったり、いろいろにいたして訳を聞きますると、申訳をするまでもない、お金子《かね》に手もつけはしませんが、験《げん》のある祈をされて、居ても立ってもいられなくなったことがある。
 それは※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
 やっぱりお金子《かね》の事で、私は飛んだ心得違いをいたしました、もうどうしましょう。もとよりお金子は数さえ存じません位ですが、心では誠に済まないことをしましたので、神様、仏様にはどんな御罰《おばち》を蒙《こうむ》るか知れません。
 憎らしい鼻の爺《じじい》は、それはそれは空恐ろしいほど、私の心の内を見抜いていて、日に幾たびとなく枕許《まくらもと》へ参っては、
(女《むすめ》、罪のないことは私《わし》がよう知っている、じゃが、心に済まぬ事があろう、私を頼め、助けてやる、)と、つけつまわしつ謂うのだそうで。
 お米は舌を食い切っても爺の膝を抱くのは、厭《いや》と冠《かぶり》をふり廻すと申すこと。それは私も同一《おんなじ》だけれども、罪のないものが何を恐《こわ》がって、煩うということがあるものか。済まないというのは一体どんな事と、すかしても、口説いても、それは問わないで下さいましと、強いていえば震えます、頼むようにすりゃ泣きますね、調子もかわって目の色も穏《おだやか》でないようでございましたが、仕方がございません。で、しおしおその日は帰りまして、一杯になる胸を掻破《かきやぶ》りたいほど、私が案ずるよりあの女《こ》の容体は一倍で、とうとう貴方、前後が分らず、厭なことを口走りまして、時々、それ巡査《おまわり》さんが捕まえる、きゃっといって刎起《はねお》きたり、目を見据えましては、うっとりしていて、ああ、真暗《まっくら》だこと、牢へ入れられたと申しちゃあ泣くようになりました。そんな容子《ようす》で、一日々々、このごろでは目もあてられませんように弱りまして、ろくろく湯水も通しません。
 何か、いろんな恐しいものが寄って集《たか》って苛《さいな》みますような塩梅《あんばい》、爺にさえ縋って頼めば、またお日様が拝まれようと、自分の口からも気の確《たしか》な時は申しながら、それは殺されても厭だといいまする。
 神でも仏でも、尊い手をお延ばし下すって、早く引上げてやって頂かねば、見る中《うち》にも砂一粒ずつ地の下へ崩れてお米は貴方、旦那様。
 奈落の底までも落ちて参りますような様子なのでございます。その上意地悪く、鼻めが沢井様へ入《い》り込みますこと、毎日のよう。奥様はその祈の時からすっかり御信心をなすったそうで、畳の上へも一件の杖をおつかせなさいますお扱い、それでお米の枕許をことことと叩いちゃあ、
(気分はどうじゃ、)といいますそうな。」

       十七

 お幾は年紀《とし》の功だけに、身を震わさないばかりであ
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