中に、毛筋の乱れました頸脚《えりあし》なんざ、雪のようで、それがあの、客だと見て真蒼《まっさお》な顔でこっちを向きましたのを、今でも私《わたくし》は忘れません。可哀そうにそれから二年目にとうとう亡《なく》なりましたが、これは府中に居た女郎上りを買って来て置いたのだと申します。
 もうその以前から評判が立っておりましたので、山と積まれてからが金子《かね》で生命《いのち》までは売りませんや、誰も島屋の隠居には片づき人《て》がなかったので、どういうものでございますか、その癖、そうやって、嫁が極《きま》りましても女房が居ましても、家へ顔を出しますのはやっぱり破風《はふ》から毎年その月のその日の夜中、ちょうど入梅《つゆ》の真中《まんなか》だと申します、入梅から勘定して隠居が来たあとをちょうど同一《おんなじ》ように指を折ると、大抵梅雨あけだと噂があったのでございまして。
 実際、おかみさんが出来るようになりましてからも参るのは確《たしか》に年に一度でございましたが、それとも日に三度ずつも来ましたか、そこどこはたしかなことは解りません。
 何にいたしましても、来るものも娶《と》るものも亡くなりましたのは、こりゃ葬式《とむらい》が出ましたから事実《まったく》なんで。
 さあ、どんづまりのその女郎が殺されましてからは、怪我にもゆき人《て》がございません、これはまた無いはずでございましょう。
 そうすると一年、二年、三年と、段々店が寂れまして、家も蔵も旧《もと》のようではなくなりました。一時は買込んだ田地《でんじ》なども売物に出たとかいう評判でございました。
 そうこういたします内に、さよう、一昨年でございましたよ、島屋の隠居が家《うち》へ帰ったということを聞きましたのは。それから戦争の祈祷の評判、ひとしきりは女房一件で、饅頭の餡でさえ胸を悪くしたものも、そのお国のために断食をした、お籠《こもり》をした、千里のさき三年のあとのあとまで見通しだと、人気といっちゃあおかしく聞えますが、また隠居殿の曲った鼻が素直《まっすぐ》になりまして、新聞にまで出まする騒ぎ。予言者だ、と旦那様、活如来《いきにょらい》の扱《あつかい》でございましょう。
 ああ、やれやれ、家《うち》へ帰ってもあの年紀《とし》で毎晩々々|機織《はたおり》の透見をしたり、糸取場を覗《のぞ》いたり、のそりのそり這《は》うようにして歩行《ある》いちゃ、五宿の宿場女郎の張店《はりみせ》を両側ね、糸をかがりますように一軒々々格子戸の中へ鼻を突込《つっこ》んじゃあクンクン嗅《か》いで歩行《ある》くのを御存じないか、と内々私はちっと聞いたことがございますので、そう思っておりましたが、善くは思いませんばかりでも、お肚《なか》のことを嗅ぎつけられて、変な杖でのろわれたら、どんな目に逢おうも知れぬと、薄気味の悪い爺《じじい》なんでございます。
 それが貴方、以前からお米を貴方。」
 と少し言渋りながら、
「跟《つ》けつ廻しつしているのでございます。」と思切った風でいったのである。
「何、お米を、あれが、」と判事は口早にいって、膝を立てた。
「いいえ、あの、これと定ったこともございません、ございませんようなものの、ふらふら堀ノ内様の近辺、五宿あたり、夜更《よふけ》でも行きあたりばったりにうろついて、この辺へはめったに寄りつきませなんだのが、沢井様へお米が参りまして、ここでもまた、容色《きりょう》が評判になりました時分から、藪《やぶ》からでも垣からでも、ひょいと出ちゃああの女《こ》の行《ゆ》くさきを跟《つ》けるのでございます。薄ぼんやりどこにかあの爺が立ってるのを見つけましたものが、もしその歩き出しますのを待っておりますれば、きっとお米の姿が道に見えると申したようなわけでございまして。」

       十三

「おなじ奉公人どもが、たださえ口の悪い処へ、大事|出来《しゅったい》のように言い囃《はや》して、からかい半分、お米さんは神様のお気に入った、いまに緋《ひ》の袴《はかま》をお穿《は》きだよ、なんてね。
 まさかに気があろうなどとは、怪我にも思うのじゃございますまいが、串戯《じょうだん》をいわれるばかりでも、癩病《かったい》の呼吸《いき》を吹懸《ふっか》けられますように、あの女《こ》も弱り切っておりましたそうですが。
 つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲いた時分だと申しますから、まだ浴衣を着ておりますほどのこと。
 急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。
 まだ明《あかり》も点《つ》けません、晩方、直《じ》きその夕顔の咲いております垣根のわきがあらい格子。手許《てもと》が暗くなりましたので、袖が触りますばかりに、格子の処へ
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