ょううし》の刻だったと申します、」と婆さんは肩をすぼめ、
「しかも降続きました五月雨《さみだれ》のことで、攫《さら》われて参りましたと同一《おんなじ》夜だと申しますが、皺枯《しわが》れた声をして、
(家中《うちじゅう》無事か、)といったそうでございますよ。見ると、真暗《まっくら》な破風の間《あい》から、ぼやけた鼻が覗《のぞ》いていましょうではございませんか。
 皆《みんな》、手も足も縮《すく》んでしまいましたろう、縛りつけられたようになりましたそうでございますが、まだその親が居《お》りました時分、魔道へ入った児《こ》でも鼻を嘗《な》めたいほど可愛かったと申しまする。
(忰《せがれ》、まあ、)と父親《てておや》が寄ろうとしますと、変な声を出して、
 寄らっしゃるな、しばらく人間とは交《まじわ》らぬ、と払い退《の》けるようにしてそれから一式の恩返しだといって、その時、饅頭の餡《あん》の製し方を教えて、屋根からまた行方が解らなくなったと申しますが、それからはその島屋の饅頭といって街道名代の名物でございます。」

       十一

「在り来《きた》りの皮は、麁末《そまつ》な麦の香のする田舎饅頭なんですが、その餡の工合《ぐあい》がまた格別、何とも申されません旨《うま》さ加減、それに幾日《いくか》置きましても干からびず、味は変りませんのが評判で、売れますこと売れますこと。
 近在は申すまでもなく、府中八王子|辺《あたり》までもお土産折詰になりますわ。三鷹《みたか》村深大寺、桜井、駒返《こまかえ》し、結構お茶うけはこれに限る、と東京のお客様にも自慢をするようになりましたでしょう。
 三年と五年の中《うち》にはめきめきと身上《しんしょう》を仕出しまして、家《うち》は建て増します、座敷は拵《こしら》えます、通庭《とおりにわ》の両方には入込《いりごみ》でお客が一杯という勢《いきおい》、とうとう蔵の二|戸前《とまえ》も拵《こしら》えて、初《はじめ》はほんのもう屋台店で渋茶を汲出《くみだ》しておりましたのが俄分限《にわかぶげん》。
 七年目に一度顔を見せましてから毎年五月雨のその晩には、きっと一度ずつ破風《はふ》から覗《のぞ》きまして、
(家中無事か。)おお、厭だ!」と寂しげに笑ってお幾婆さんは身顫《みぶるい》をした。
「その中《うち》親が亡《なく》なって代がかわりました。三人の兄弟で、仁右衛門と申しますあの鼻は、一番の惣領、二番目があとを取ります筈《はず》の処、これは厭じゃと家出をして坊さんになりました。
 そこで三蔵と申しまする、末が家《うち》へ坐りましたが、街道一の家繁昌、どういたして早やただの三蔵じゃあございません、寄合にも上席で、三蔵旦那でございまする。
 誰のお庇《かげ》だ、これも兄者人《あにじゃひと》の御守護のせい何ぞ恩返しを、と神様あつかい、伏拝みましてね、」
 と婆さんは掌《たなそこ》を合せて見せ、
「一《ある》年、やっぱりその五月雨の晩に破風から鼻を出した処で、(何ぞお望《のぞみ》のものを)と申上げますと、(ただ据えておけば可い、女房を一人、)とそういったそうでございます。」
「ふむ、」
「まあ、お聞き遊ばせ、こうなんでございますよ。
 それから何事を差置いても探しますと、ございました。来るものも一生奉公の気なら、島屋でも飼殺しのつもり、それが年寄でも不具《かたわ》でもございません。
(色の白い、美しいのがいいいい。)
 と異な声で、破風口から食好みを遊ばすので、十八になるのを伴《つ》れて参りました、一番目の嫁様は来た晩から呻《うめ》いて、泣煩うて貴方、三月日には痩衰《やせおとろ》えて死んでしまいました。
 その次のも時々悲鳴を上げましたそうですが、二年|経《た》ってやっぱり骨と皮になって、可哀そうにこれもいけません。
 さあ来るものも来るものも、一年たつか二年持つか、五年とこたえたものは居りませんで、九人までなくなったのでございます。
 あるに任して金子《かね》も出したではございましょうが、よくまあ、世間は広くッて八人の九人のと目鼻のある、手足のある、胴のある、髪の黒い、色の白い女があったものだと思いますのでございますよ。十人目に十三年生きていたという評判の婦人《おんな》が一人、それは私《わたくし》もあの辺に参りました時、饅頭を買いに寄りましてちょっと見ましたっけ。
 大柄な婦人《おんな》で、鼻筋の通った、佳《い》い容色《きりょう》、少し凄《すご》いような風ッつき、乱髪《みだれがみ》に浅葱《あさぎ》の顱巻《はちまき》を〆《し》めまして病人と見えましたが、奥の炉《ろ》のふちに立膝をしてだらしなく、こう額に長煙管をついて、骨が抜けたように、がっくり俯向《うつむ》いておりましたが。」

       十二

「百姓家の納戸の薄暗い
前へ 次へ
全16ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング