し》十八九の時分から一時《ひとしきり》、この世の中から行方が知れなくなって、今までの間、甲州の山続き白雲《しらくも》という峰に閉籠《とじこも》って、人足《ひとあし》の絶えた処で、行い澄して、影も形もないものと自由自在に談《はなし》が出来るようになった、実に希代な予言者だと、その山の形容などというものはまるで大薩摩《おおざつま》のように書きました。
その鼻があの爺《じじい》なんでございましてね。
はい、いえ、さようでございます、旦那様も新聞で御存じでも、あの爺のこととは思召しますまいよ。ちっとも鼻の大きなことは書いてないのだそうでございますから。
もっとも鐘馗《しょうき》様がお笑い遊ばしちゃあ、鬼が恐《こわ》がりはいたしますまい、私どもが申せば活如来、新聞屋さんがおっしゃればその予言者、活如来様や予言者殿の、その鼻ッつきがああだとあっては、根ッから難有味《ありがたみ》がございませんもの、売ものに咲いた花でございましょう。
その癖雲霧が立籠めて、昼も真暗《まっくら》だといいました、甲州街道のその峰と申しますのが、今でも爺さんが時々お籠《こもり》をするという庵《いおり》がございますって。そこは貴方、府中の鎮守様の裏手でございまして、手が届きそうな小さな丘なんでございますよ。もっとも何千年の昔から人足の絶えた処には違いございません、何|蕨《わらび》でも生えてりゃ小児《こども》が取りに入りましょうけれども、御覧じゃりまし、お茶の水の向うの崖だって仙台様お堀割の昔から誰も足踏をした者はございませんや。日蔭はどこだって朝から暗うございまする、どうせあんな萌《もやし》の糸瓜《へちま》のような大きな鼻の生えます処でございますもの、うっかり入ろうものなら、蚯蚓《みみず》の天上するのに出ッくわして、目をまわしませんければなりますまいではございませんか。」と、何か激したことのあるらしく婆さんはまくしかけた。
十
一息つき言葉をつぎ、
「第一、その日清戦争のことを見透《みすか》して、何か自分が山の祠《ほこら》の扉を開けて、神様のお馬の轡《くつわ》を取って、跣足《はだし》で宙を駈出《かけだ》して、旅順口にわたりゃあお手伝でもして来たように申しますが、ちっとも戦《いくさ》のあった最中に、そんなことが解ったのではございません。ようよう一昨年から去年あたりへかけて騒ぎ出したのでございますもの、疑《うたぐ》ってみました日には、当《あて》になりはいたしません。しかしまあ何でございますね、前触《まえぶ》が皆《みんな》勝つことばかりでそれが事実《まったく》なんですから結構で、私《わたくし》などもその話を聞きました当座は、もうもう貴方。」
と黙って聞いていた判事に強請《ねだ》るがごとく、
「お可煩《うるさ》くはいらっしゃいませんか、」
「悉《くわ》しく聞こうよ。」
判事は倦《う》める色もあらず、お幾はいそいそして、
「ええどうぞ。条《すじ》を申しませんと解りません。私《わたくし》どもは以前、ただ戦争のことにつきましてあれが御祈祷《ごきとう》をしたり、お籠《こもり》、断食などをしたという事を聞きました時は、難有《ありがた》い人だと思いまして、あんな鼻附でも何となく尊いもののように存じましたけれども、今度のお米のことで、すっかり敵対《むこう》になりまして、憎らしくッて、癪《しゃく》に障ってならないのでございます。
あんなもののいうことが当になんぞなりますものか。卜《うらない》もくだらない[#「くだらない」に傍点]もあったもんじゃあございません。
でございますが、難有味《ありがたみ》はなくッても信仰はしませんでも、厭《いや》な奴は厭な奴で、私がこう悪口《あっこう》を申しますのを、形は見えませんでもどこかで聞いていて、仇《あだ》をしやしまいかと思いますほど、気味の悪い爺《じじい》なんでございまして、」
といいながら日暮際のぱっと明《あかる》い、艶《つや》のないぼやけた下なる納戸に、自分が座の、人なき薄汚れた座蒲団のあたりを見て、婆さんは後《うしろ》見らるる風情であったが、声を低うし、
「全体あの爺は甲州街道で、小商人《こあきんど》、煮売屋ともつかず、茶屋ともつかず、駄菓子だの、柿だの饅頭《まんじゅう》だのを商いまする内の隠居でございまして、私《わたくし》ども子供の内から親どもの話に聞いておりましたが、何でも十六七の小僧の時分、神隠しか、攫《さら》われたか、行方知れずになったんですって。見えなくなった日を命日にしている位でございましたそうですが、七年ばかり経《た》ちましてから、ふいと内の者に姿を見せたと申しますよ。
それもね、旦那様、まともに帰って来たのではありません。破風《はふ》を開けて顔ばかり出しましたとさ、厭じゃありませんか、正丑《し
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