言うまでもない。狐格子《きつねごうし》、唐戸《からど》、桁《けた》、梁《うつばり》、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すものの此処《ここ》彼処《かしこ》、巡拝《じゅんぱい》の札《ふだ》の貼りつけてないのは殆どない。
彫金《ほりきん》というのがある、魚政《うおまさ》というのがある、屋根安《やねやす》、大工鉄《だいてつ》、左官金《さかんきん》。東京の浅草《あさくさ》に、深川《ふかがわ》に。周防国《すおうのくに》、美濃《みの》、近江《おうみ》、加賀《かが》、能登《のと》、越前《えちぜん》、肥後《ひご》の熊本、阿波《あわ》の徳島。津々浦々《つつうらうら》の渡鳥《わたりどり》、稲負《いなおお》せ鳥《どり》、閑古鳥《かんこどり》。姿は知らず名を留《と》めた、一切の善男子《ぜんなんし》善女人《ぜんにょにん》。木賃《きちん》の夜寒《よさむ》の枕にも、雨の夜の苫船《とまぶね》からも、夢はこの処《ところ》に宿るであろう。巡礼たちが霊魂《たましい》は時々|此処《ここ》に来て遊《あす》ぼう。……おかし、一軒一枚の門札《もんふだ》めくよ。
五
一座の霊地《れいち》は、渠《かれ》らのためには平等利益《びょうどうりやく》、楽《たのし》く美しい、花園である。一度|詣《もう》でたらんほどのものは、五十里、百里、三百里、筑紫《つくし》の海の果《はて》からでも、思いさえ浮んだら、束《つか》の間《ま》に此処《ここ》に来て、虚空《こくう》に花降《はなふ》る景色を見よう。月に白衣《びゃくえ》の姿も拝もう。熱あるものは、楊柳《ようりゅう》の露の滴《したたり》を吸うであろう。恋するものは、優柔《しなやか》な御手《みて》に縋《すが》りもしよう。御胸《おんむね》にも抱《いだ》かれよう。はた迷える人は、緑の甍《いらか》、朱《あけ》の玉垣《たまがき》、金銀の柱、朱欄干《しゅらんかん》、瑪瑙《めのう》の階《きざはし》、花唐戸《はなからど》。玉楼金殿《ぎょくろうきんでん》を空想して、鳳凰《ほうおう》の舞う竜《たつ》の宮居《みやい》に、牡丹《ぼたん》に遊ぶ麒麟《きりん》を見ながら、獅子王《ししおう》の座に朝日影さす、桜の花を衾《ふすま》として、明月《めいげつ》の如き真珠を枕に、勿体《もったい》なや、御添臥《おんそいぶし》を夢見るかも知れぬ。よしそれとても、大慈大悲《だいじだいひ》、観世音《かんぜおん》は咎《とが》め給《たま》わぬ。
さればこれなる彫金《ほりきん》、魚政《うおまさ》はじめ、此処《ここ》に霊魂の通《かよ》う証拠には、いずれも巡拝《じゅんぱい》の札《ふだ》を見ただけで、どれもこれも、女名前《おんななまえ》のも、ほぼその容貌と、風采《ふうさい》と、従ってその挙動までが、朦朧《もうろう》として影の如く目に浮ぶではないか。
かの新聞で披露《ひろう》する、諸種の義捐金《ぎえんきん》や、建札《たてふだ》の表《ひょう》に掲示する寄附金の署名が写実である時に、これは理想であるといっても可《よ》かろう。
微笑《ほほえ》みながら、一枚ずつ。
扉の方へうしろ向けに、大《おおき》な賽銭箱《さいせんばこ》のこなた、薬研《やげん》のような破目《われめ》の入った丸柱《まるばしら》を視《なが》めた時、一枚|懐紙《かいし》の切端《きれはし》に、すらすらとした女文字《おんなもじ》。
[#天から4字下げ]うたゝ寐《ね》に恋しき人を見てしより
[#天から9字下げ]夢てふものは頼みそめてき
[#天から16字下げ]――玉脇《たまわき》みを――
と優《やさ》しく美《うつくし》く書いたのがあった。
「これは御参詣で。もし、もし、」
はッと心付くと、麻《あさ》の法衣《ころも》の袖《そで》をかさねて、出家《しゅっけ》が一人、裾短《すそみじか》に藁草履《わらぞうり》を穿《は》きしめて間近《まぢか》に来ていた。
振向《ふりむ》いたのを、莞爾《にこ》やかに笑《え》み迎えて、
「些《ちっ》とこちらへ。」
賽銭箱《さいせんばこ》の傍《わき》を通って、格子戸に及腰《およびごし》。
「南無《なむ》」とあとは口の裏《うち》で念じながら、左右へかたかたと静《しずか》に開けた。
出家は、真直《まっす》ぐに御廚子《みずし》の前、かさかさと袈裟《けさ》をずらして、袂《たもと》からマッチを出すと、伸上《のびあが》って御蝋《おろう》を点じ、額《ひたい》に掌《たなそこ》を合わせたが、引返《ひきかえ》してもう一枚、彳《たたず》んだ人の前の戸を開けた。
虫ばんだが一段高く、かつ幅の広い、部厚《ぶあつ》な敷居《しきい》の内に、縦に四畳《よじょう》ばかり敷かれる。壁の透間《すきま》を樹蔭《こかげ》はさすが、縁《へり》なしの畳《たたみ》は青々《あおあお》と新しかった。
出家は、上に何《なん》にもない、小机
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