いぶん》何千人という東京からの客人で、目の覚めるような美麗《びれい》な方《かた》もありまするが、なかなかこれほどのはないでございます。」
「じゃ、私《わたし》が見ても恋煩《こいわずら》いをしそうですね、危険《けんのん》、危険《けんのん》。」
出家は真面目に、
「何故《なぜ》でございますか。」
「帰路《かえり》には気を注《つ》けねばなりません。何処《どこ》ですか、その財産家の家《うち》は。」
十
菜種《なたね》にまじる茅家《かやや》のあなたに、白波と、松吹風《まつふくかぜ》を右左《みぎひだ》り、其処《そこ》に旗のような薄霞《うすがすみ》に、しっとりと紅《くれない》の染《そ》む状《さま》に桃の花を彩《いろど》った、その屋《や》の棟《むね》より、高いのは一つもない。
「角《かど》の、あの二階家《にかいや》が、」
「ええ?」
「あれがこの歌のかき人《て》の住居《すまい》でござってな。」
聞くものは慄然《ぞっ》とした。
出家は何んの気もつかずに、
「尤《もっと》も彼処《あすこ》へは、去年の秋、細君だけが引越《ひきこ》して参ったので。丁《ちょう》ど私《わたくし》がお宿を致したその御仁《ごじん》が……お名は申しますまい。」
「それが可《よ》うございます。」
「唯《ただ》、客人――でお話をいたしましょう。その方《かた》が、庵室《あんじつ》に逗留中、夜分な、海へ入って亡《な》くなりました。」
「溺《おぼ》れたんですか、」
「と……まあ見えるでございます、亡骸《なきがら》が岩に打揚《うちあ》げられてござったので、怪我《けが》か、それとも覚悟の上か、そこは先《ま》ず、お聞取《ききと》りの上の御推察でありますが、私は前《ぜん》申す通り、この歌のためじゃようにな、」
「何しろ、それは飛んだ事です。」
「その客人が亡くなりまして、二月《ふたつき》ばかり過ぎてから、彼処《あすこ》へ、」
と二階家の遥《はるか》なのを、雲の上から蔽《おお》うよう、出家は法衣《ころも》の袖《そで》を上げて、
「細君が引越して来ましたので。恋じゃ、迷《まよい》じゃ、という一騒《ひとさわ》ぎござった時分は、この浜方《はまがた》の本宅に一家族、……唯今《ただいま》でも其処《そこ》が本家、まだ横浜にも立派な店《たな》があるのでありまして、主人は大方《おおかた》その方《ほう》へ参っておりましょうが。
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