なる、久能谷《くのや》のこの出口は、あたかも、ものの撞木《しゅもく》の形《なり》。前は一面の麦畠《むぎばたけ》。
 正面に、青麦《あおむぎ》に対した時、散策子の面《おもて》はあたかも酔えるが如きものであった。
 南無三宝《なむさんぼう》声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
 一散《いっさん》に遁《に》げもならず、立停《たちど》まった渠《かれ》は、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴《わしづか》みの掌《たなそこ》を辷《すべ》り抜けなんだを口惜《くちおし》く思ったろう。
「私《わたし》。」
 と振返って、
「ですかい、」と言いつつ一目《ひとめ》見たのは、頭《かしら》禿《かむろ》に歯《は》豁《あらわ》なるものではなく、日の光|射《さ》す紫のかげを籠《こ》めた俤《おもかげ》は、几帳《きちょう》に宿る月の影、雲の鬢《びんずら》、簪《かざし》の星、丹花《たんか》の唇、芙蓉《ふよう》の眦《まなじり》、柳の腰を草に縋《すが》って、鼓草《たんぽぽ》の花に浮べる状《さま》、虚空にかかった装《よそおい》である。
 白魚《しらお》のような指が、ちょいと、紫紺《しこん》の半襟《はんえり》を引き合わせると、美しい瞳《ひとみ》が動いて、
「失礼を……」
 と唯《ただ》莞爾《にっこり》する。
「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、遁《に》げ路《みち》を見て置くのである。
「貴下《あなた》お呼び留《と》め申しまして、」
 とふっくりとした胸を上げると、やや凭《もた》れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。
「はあ、何《なに》、」
 真正直《まっしょうじき》な顔をして、
「私ですか、」と空とぼける。
「貴下《あなた》のようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻《せんこく》は、真《まこと》に御心配下さいまして、」
 徐《やお》ら、雪のような白足袋《しろたび》で、脱ぎ棄てた雪駄《せった》を引寄《ひきよ》せた時、友染《ゆうぜん》は一層はらはらと、模様の花が俤《おもかげ》に立って、ぱッと留南奇《とめき》の薫《かおり》がする。
 美女《たおやめ》は立直《たちなお》って、
「お蔭様《かげさま》で災難を、」
 と襟首《えりくび》を見せてつむりを下げた。
 爾時《そのとき》独武者《ひとりむしゃ》、杖《ステッキ》をわきばさみ、兜《かぶと》を脱いで、
「ええ、何んですかな、」と曖昧《あいまい》。
 美女《たおやめ》は親しげに笑いかけて、
「ほほ、私《わたし》はもう災難と申します。災難ですわ、貴下《あなた》。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分|家《うち》を明渡《あけわた》して、何処《どこ》かへ参らなければなりませんの。真個《ほんとう》にそうなりましたら、どうしましょう。お庇様《かげさま》で助《たすか》りましてございますよ。ありがとう存じます。」
「それにしても、私と極《き》めたのは、」
 と思うことが思わず口へ出た。
 これは些《ち》と調子はずれだったので、聞き返すように、
「ええ、」

       二十七

「先刻《さっき》の、あの青大将《あおだいしょう》の事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」
 と棄鞭《すてむち》の遁構《にげがま》えで、駒の頭《かしら》を立直《たてなお》すと、なお打笑《うちえ》み、
「そりゃ知れますわ。こんな田舎《いなか》ですもの。そして御覧の通り、人通りのない処《ところ》じゃありませんか。
 貴下《あなた》のような方《かた》の出入《ではいり》は、今朝《けさ》ッからお一人しかありませんもの。丁《ちゃん》と存じておりますよ。」
「では、あの爺《じい》さんにお聞きなすって、」
「否《いいえ》、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝《おが》みました。」
「じゃあ、私が青大将を見た時に、」
「貴下《あなた》のお姿が楯《たて》におなり下さいましたから、爾時《そのとき》も、厭《いや》なものを見ないで済みました。」
 と少し打傾《うちかたむ》いて懐《なつか》しそう。
「ですが、貴女《あなた》、」とうっかりいう、
「はい?」
 と促《うな》がすように言いかけられて、ハタと行詰《ゆきつま》ったらしく、杖《ステッキ》をコツコツと瞬《またたき》一《ひと》ツ、唇を引緊《ひきし》めた。
 追っかけて、
「何んでございますか、聞かして頂戴《ちょうだい》。」
 と婉然《えんぜん》とする。
 慌《あわ》て気味に狼狽《まご》つきながら、
「貴女《あなた》は、貴女《あなた》は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」
「あら、こんなに甲羅《こうら》を干《ほ》しておりますものを。」
「へい、」と、綱《つな》は目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、ああ、我ながらまずいことを言った顔色《がんしょく》。
 美女《たおやめ》はその顔を差覗《さしのぞ》く風情《ふぜい》して、瞳《ひとみ》を斜めに衝《つ》と流しながら、華奢《きゃしゃ》な掌《たなそこ》を軽《かろ》く頬に当てると、紅《くれない》がひらりと搦《から》む、腕《かいな》の雪を払う音、さらさらと衣摺《きぬず》れして、
「真個《まったく》は、寝ていましたの……」
「何んですッて、」
 と苦笑《にがわらい》。
「でも爾時《そのとき》は寝ていやしませんの。貴下《あなた》起きていたんですよ。あら、」
 とやや調子高《ちょうしだか》に、
「何を言ってるんだか分らないわねえ。」
 馴々《なれなれ》しくいうと、急に胸を反《そ》らして、すッきりとした耳許《みみもと》を見せながら、顔を反向《そむ》けて俯向《うつむ》いたが、そのまま身体《からだ》の平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直《たちなお》って、
「否《いいえ》、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下《あなた》のお姿を拝みますと、急に心持《こころもち》が悪くなって、それから寝たんです。」
「これは酷《ひど》い、酷《ひど》いよ、貴女《あなた》は。」
 棄《す》て身《み》に衝《つつ》と寄り進んで、
「じゃ青大将の方が増《まし》だったんだ。だのに、わざわざ呼留《よびと》めて、災難を免《のが》れたとまで事を誇大《こだい》にして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居《おすまい》だと聞いたにつけても、いよいよ極《きまり》が悪くって、此処《ここ》だって、貴女《あなた》、こそこそ遁《に》げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟《おおげさ》に礼を言って、極《きまり》を悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊《ゆうれい》じゃあるまいし、心持《こころもち》を悪くする姿というがありますか。図体《ずうたい》とか、状《さま》とかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは些《ち》と烈《はげ》しい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。
 要《い》らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――勧進帳《かんじんちょう》でも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿《いわど》へ引返《ひっかえ》して、山越《やまごえ》で出奔《しゅっぽん》する分《ぶん》の事です。」
 と逆寄《さかよ》せの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの処《ところ》、負けまい気の、魔《ま》ものの顔を見詰《みつ》めていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が据《すわ》らず、床几《しょうぎ》を辷《すべ》って、ずるりと大地へ。
「あら、お危《あぶな》い。」
 というが早いか、眩《まばゆ》いばかり目の前へ、霞《かすみ》を抜けた極彩色《ごくさいしき》。さそくに友染《ゆうぜん》の膝を乱して、繕《つくろ》いもなくはらりと折敷《おりし》き、片手が踏み抜いた下駄《げた》一ツ前壺《まえつぼ》を押して寄越《よこ》すと、扶《たす》け起すつもりであろう、片手が薄色の手巾《ハンケチ》ごと、ひらめいて芬《ぷん》と薫《かお》って、優《やさ》しく男の背《そびら》にかかった。

       二十八

 南無観世音大菩薩《なむかんぜおんだいぼさつ》………助けさせたまえと、散策子は心の裏《うち》、陣備《じんぞなえ》も身構《みがまえ》もこれにて粉《こな》になる。
「お足袋《たび》が泥だらけになりました、直《じ》き其処《そこ》でござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お脱《ぬ》ぎ遊ばせな。」
 と指をかけようとする爪尖《つまさき》を、慌《あわただ》しく引込《ひっこ》ませるを拍子《ひょうし》に、体《たい》を引いて、今度は大丈夫《だいじょうぶ》に、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を懸《か》ける。暖《あたたか》い草が、ちりげもとで赫《かっ》とほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、
「構わんです、構わんです、こんな足袋《たび》なんぞ。」
 ヤレまた落語の前座《ぜんざ》が言いそうなことを、とヒヤリとして、漸《やっ》と瞳《ひとみ》を定《さだ》めて見ると、美女《たおやめ》は刎飛《はねと》んだ杖《ステッキ》を拾って、しなやかに両手でついて、悠々《ゆうゆう》と立っている。
 羽織《はおり》なしの引《ひっ》かけ帯《おび》、ゆるやかな袷《あわせ》の着こなしが、いまの身じろぎで、片前下《かたまえさが》りに友染《ゆうぜん》の紅《くれない》匂《にお》いこぼれて、水色縮緬《みずいろちりめん》の扱帯《しごき》の端《はし》、ややずり下《さが》った風情《ふぜい》さえ、杖《ステッキ》には似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――可哀《かわい》や、お主《しゅう》の身がわりに、恋の重荷《おもに》でへし折れよう。
「真個《ほんと》に済みませんでした。」
 またぞろ先《せん》を越して、
「私《わたし》、どうしたら可《い》いでしょう。」
 と思い案ずる目を半《なか》ば閉じて、屈託《くったく》らしく、盲目《めくら》が歎息《たんそく》をするように、ものあわれな装《よそおい》して、
「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
 貴下《あなた》のお姿を見て、それから心持《こころもち》が悪くなりましたって、言通《ことばどお》りの事が、もし真個《まったく》なら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下《あなた》のお姿を見て、それから心持が悪く……」
 再び口の裏《うち》で繰返して見て、
「おほほ、まあ、大概《たいがい》お察し遊ばして下さいましなね。」
 と楽にさし寄って、袖《そで》を土手へ敷いて凭《もた》れるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを翠《みどり》に仕切って、二人の裾《すそ》は、足許《あしもと》なる麦畠に臨んだのである。
「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」
「はい、」
「ね、貴下《あなた》、」
「はい、」
 と無意味に合点《がってん》して頷《うなず》くと、まだ心が済まぬらしく、
「言《ことば》とがめをなすってさ、真個《ほんと》にお人が悪いよ。」
 と異《おつ》に搦《から》む。
 聊《いささ》か弁《べん》ぜざるべからず、と横に見向いて、
「人の悪いのは貴女《あなた》でしょう。私《わたし》は何も言《ことば》とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺《うかが》いました。」
「そして、腹をお立てなすったんですもの。」
「否《いや》、恐縮をしたまでです。」
「そこは貴下《あなた》、お察し遊ばして下さる処《ところ》じゃありませんか。
 言《ことば》の綾《あや》もございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」
「裏だと……お待ちなさいよ。」
 ええ、といきつぎに目を瞑《ねむ》って、仰向《あおむ》いて一呼吸《ひといき》ついて、
「心持《こころもち》が悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善《よ》くなった――事になる――可《い》い加減《かげん
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング