こがれ死《じに》をしたと言う、久能谷《くのや》の庵室《あんじつ》の客も、其処《そこ》に健在であろうも知れぬ。
 否《いな》、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方《よも》の海の、水の底へも潜《くぐ》ろうと、(ことづけ)をしたのであろう。
 この歌は、平安朝に艶名《えんめい》一世《いっせ》を圧《あっ》した、田《た》かりける童《わらべ》に襖《あお》をかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた情《なさけ》に感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛《めいえん》の作と思う。
 言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂《みどう》の柱に、うたた寐《ね》の歌を楽書《らくがき》したとおなじ玉脇の妻、みを子である。
 深く考うるまでもなく、庵《いおり》の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の契《ちぎり》があったらしい。
 男は真先《まっさき》に世間外《せけんがい》に、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を以《も》って直《ただ》ちに幽冥《ゆうめい》に趣《おもむ》いたもののようであるが、婦人《おんな》はまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶《うつもん》を漏《も》らした、未来があるものと定《さだま》り、霊魂の行末《ゆくすえ》が極《きま》ったら、直ぐにあとを追おうと言った、言《ことば》の端《はし》にも顕《あらわ》れていた。
 唯《ただ》その有耶無耶《うやむや》であるために、男のあとを追いもならず、生長《いきなが》らえる効《かい》もないので。
 そぞろに門附《かどづけ》を怪しんで、冥土《めいど》の使《つかい》のように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張《いきばり》ずくで死んで見せように到っては、益々《ますます》悩乱《のうらん》のほどが思い遣《や》られる。
 また一面から見れば、門附《かどづけ》が談話《はなし》の中に、神田辺《かんだへん》の店で、江戸紫《えどむらさき》の夜あけがた、小僧が門《かど》を掃《は》いている、納豆《なっとう》の声がした……のは、その人が生涯の東雲頃《しののめごろ》であったかも知れぬ。――やがて暴風雨《あらし》となったが――
 とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、以《もっ》て未来の有無を占《うらな》おうとしたらしかったに――頭陀袋《ずだぶくろ》にも納めず、帯にもつけず、袂《たもと》にも入れず、角兵衛がその獅子頭《ししがしら》の中に、封じて去ったのも気懸《きがか》りになる。為替《かわせ》してきらめくものを掴《つか》ませて、のッつ反《そ》ッつの苦患《くげん》を見せない、上花主《じょうとくい》のために、商売|冥利《みょうり》、随一《ずいいち》大切な処《ところ》へ、偶然|受取《うけと》って行ったのであろうけれども。
 あれがもし、鳥にでも攫《さら》われたら、思う人は虚空《こくう》にあり、と信じて、夫人は羽化《うか》して飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返《ひきかえ》してその音信《おとずれ》は伝えまい。
 従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を留《と》めて、
[#天から4字下げ]君とまたみる目《め》おひせば四方《よも》の海《うみ》の……
と我にもあらず口ずさんだ。
 更に答えぬ。
 もしまたうつせ貝《がい》が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ貝《がい》の花吹雪は、いつも私語《ささやき》を絶えせぬだろうに。されば幼児《おさなご》が拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一《おなじ》である。
 小貝《こがい》をそこで捨てた。
 そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷《すべ》り落ちても埋《うも》れはせぬ。
 しばらくして、その半眼《はんがん》に閉じた目は、斜めに鳴鶴《なきつる》ヶ|岬《さき》まで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火《しらぬい》にはっきり覚めた。
 とそれは獅子頭《ししがしら》の緋《ひ》の母衣《ほろ》であった。
 二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪《こつぼ》の崕《がけ》まで、人影一ツ見えぬ処《ところ》へ。
 停車場《ステイション》に演劇《しばい》がある、町も村も引っぷるって誰《たれ》が角兵衛に取合《とりあ》おう。あわれ人の中のぼうふらのような忙《せわ》しい稼業の児《こ》たち、今日はおのずから閑《かん》なのである。
 二人は此処《ここ》でも後《あと》になり先になり、脚絆《きゃはん》の足を入れ違いに、頭《かしら》を組んで白波《しらなみ》を被《かつ》ぐばかり浪打際《なみうちぎわ》を歩行《ある》いたが、やがてその大きい方は、五、六尺|渚《なぎさ》を放《はな》れて、日影の如く散乱《ちりみだ》れた、かじめの中へ、草鞋《わらじ》を突出《つきだ
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