》られた。
[#天から4字下げ]君とまたみるめおひせば四方《よも》の海《うみ》の
[#天から10字下げ]水の底をもかつき見てまし
 散策子は思わず海の方《かた》を屹《きっ》と見た。波は平《たいら》かである。青麦につづく紺青《こんじょう》の、水平線上|雪《ゆき》一山《いっさん》。
 富士の影が渚《なぎさ》を打って、ひたひたと薄く被《かぶ》さる、藍色《あいいろ》の西洋館の棟《むね》高《たか》く、二、三羽|鳩《はと》が羽《はね》をのして、ゆるく手巾《ハンケチ》を掉《ふ》り動かす状《さま》であった。
 小さく畳《たた》んで、幼《おさな》い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした頤《おとがい》で、合点々々《がてんがてん》をすると見えたが、いきなり二階家の方へ行《ゆ》こうとした。
 使《つかい》を頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへ行《ゆ》くんじゃない。」
 と立入《たちい》ったが声を懸けた。
 美女《たおやめ》は莞爾《にっこり》して、
「唯《ただ》持って行ってくれれば可《い》いの、何処《どこ》へッて当《あて》はないの。落したら其処《そこ》でよし、失くしたらそれッきりで可《いい》んだから……唯《ただ》心持《こころもち》だけなんだから……」
「じゃ、唯《ただ》持って行きゃ可《い》いのかね、奥さん、」
 と聞いて頷《うなず》くのを見て、年紀上《としうえ》だけに心得顔《こころえがお》で、危《あぶな》っかしそうに仰向《あおむ》いて吃驚《びっくり》した風《ふう》でいる幼い方の、獅子頭《ししがしら》を背後《うしろ》へ引いて、
「こん中へ入れとくだア、奴《やっこ》、大事にして持ッとんねえよ。」
 獅子が並んでお辞儀《じぎ》をすると、すたすたと駈け出した。後白浪《あとしらなみ》に海の方《かた》、紅《くれない》の母衣《ほろ》翩翻《へんぽん》として、青麦の根に霞《かす》み行《ゆ》く。

       三十五

 さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処《かしこ》から鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色《あいいろ》の西洋館の傍《かたわら》なる、砂山の上に顕《あらわ》れた。
 其処《そこ》へ来ると、浪打際《なみうちぎわ》までも行《ゆ》かないで、太《いた》く草臥《くたび》れた状《さま》で、ぐッたりと先ず足を投げて腰を卸《おろ》す。どれ、貴女《あなた》のために(ことづけ)の行方《ゆくえ》を見届けましょう。連獅子《れんじし》のあとを追って、というのをしおに、まだ我儘《わがまま》が言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女《びじょ》に辞して、袂《たもと》を分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。
 一先《ひとま》ず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷《くのや》を離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場《ステイション》へ押懸《おしか》ける夥《おびただ》しさ。中にはもう此処等《ここいら》から仮声《こわいろ》をつかって行《ゆ》く壮佼《わかもの》がある、浅黄《あさぎ》の襦袢《じゅばん》を膚脱《はだぬい》で行《ゆ》く女房がある、その演劇《しばい》の恐しさ。大江山《おおえやま》の段か何か知らず、とても町へは寄附《よりつ》かれたものではない。
 で、路と一緒に、人通《ひとどおり》の横を切って、田圃《たんぼ》を抜けて来たのである。
 正面にくぎり正しい、雪白《せっぱく》な霞《かすみ》を召した山の女王《にょおう》のましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、畚《びく》や、馬秣《まぐさ》のように散《ちら》ばったかじめの如き、いずれも海に対して、我《われ》は顔《がお》をするのではないから、固《もと》より馴れた目を遮《さえぎ》りはせぬ。
 かつ人《ひと》一人《ひとり》いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑《のどか》さはしかし野にも山にも増《まさ》って、あらゆる白砂《はくさ》の俤《おもかげ》は、暖《あたたか》い霧に似ている。
 鳩は蒼空《あおぞら》を舞うのである。ゆったりした浪《なみ》にも誘《さそ》われず、風にも乗らず、同一処《おなじところ》を――その友は館《やかた》の中に、ことことと塒《ねぐら》を踏んで、くくと啼《な》く。
 人はこういう処《ところ》に、こうしていても、胸の雲霧《くもきり》の霽《は》れぬ事は、寐《ね》られぬ衾《ふすま》と相違《そうい》はない。
 徒《いたず》らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛《たわい》なくほろほろと崩れると、また傍《かたわら》からもり添える。水を掴《つか》むようなもので、捜《さぐ》ればはらはらとただ貝が出る。
 渚《なぎさ》には敷満《しきみ》ちたが、何んにも見えない処でも、纔《わずか》に砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
 水の底を捜したら、渠《かれ》がために
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