ものは、」
 とちょいと顔を上げて見ると、左の崕《がけ》から椎《しい》の樹が横に出ている――遠くから視《なが》めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室《あんじつ》はもう右手《めて》の背後《うしろ》になった。
 見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚《さ》めて、ああ、転寐《うたたね》だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時《いつ》か聞いた事がある、狂人《きちがい》と真人間《まにんげん》は、唯《ただ》時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気《きちがい》だけれど、直ぐ、凪《な》ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木《き》静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔《え》う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人《きちがい》なんだと。
 危険々々《けんのんけんのん》。
 ト来た日にゃ夢もまた同一《おんなじ》だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
 夢になら恋人に逢えると極《きま》れば、こりゃ一層《いっそ》夢にしてしまって、世間で、誰某《たれそれ》は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々《ちょうちょう》二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。
 庵室《あんじつ》の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼《たの》み切りにしたのかな。」
 と考えが道草《みちくさ》の蝶に誘《さそ》われて、ふわふわと玉《たま》の緒《お》が菜の花ぞいに伸びた処《ところ》を、風もないのに、颯《さっ》とばかり、横合《よこあい》から雪の腕《かいな》、緋《ひ》の襟《えり》で、つと爪尖《つまさき》を反らして足を踏伸《ふみの》ばした姿が、真黒《まっくろ》な馬に乗って、蒼空《あおぞら》を飜然《ひらり》と飛び、帽子の廂《ひさし》を掠《かす》めるばかり、大波を乗って、一跨《ひとまた》ぎに紅《くれない》の虹を躍《おど》り越えたものがある。
 はたと、これに空想の前途《ゆくて》を遮《さえぎ》られて、驚いて心付《こころづ》くと、赤楝蛇《やまかがし》のあとを過ぎて、機《はた》を織る婦人《おんな》の小家《こいえ》も通り越していたのであった。
 音はと思うに、きりはたり
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