《にんき》が立《た》つ。すなはち同行《どうかう》の雪岱《せつたい》さんを、今《いま》まで祕《かく》しておいた所以《ゆゑん》である。
 私《わたし》は踏《ふ》んだ石《いし》の、崖《がけ》を崩《くづ》れかゝつたのを、且《か》つ視《み》て苦笑《くせう》した。餘《あま》りの不状《ぶざま》に、娘《むすめ》の方《はう》が、優《やさし》い顏《かほ》をぽつと目瞼《まぶた》に色《いろ》を染《そ》め、膝《ひざ》まで卷《ま》いて友禪《いうぜん》に、ふくら脛《はぎ》の雪《ゆき》を合《あ》はせて、紅絹《もみ》の影《かげ》を流《ながれ》に散《ち》らして立《た》つた。
 さるにても、按摩《あんま》の笛《ふえ》の杜鵑《ほとゝぎす》に、拔《ぬ》かしもすべき腰《こし》を、娘《むすめ》の色《いろ》に落《お》ちようとした。私《わたし》は羞《は》ぢ且《か》つ自《みづか》ら憤《いきどほ》つて酒《さけ》を煽《あふ》つた。――なほ志《こゝろざ》す出雲路《いづもぢ》を、其日《そのひ》は松江《まつえ》まで行《ゆ》くつもりの汽車《きしや》には、まだ時間《じかん》がある。私《わたし》は、もう一度《いちど》宿《やど》を出《で》た。
 すぐ前《まへ》なる橋《はし》の上《うへ》に、頬被《ほゝかぶり》した山家《やまが》の年増《としま》が、苞《つと》を開《ひら》いて、一人《ひとり》行《ゆ》く人《ひと》のあとを通《とほ》つた、私《わたし》を呼《よ》んで、手《て》を擧《あ》げて、「大《おほき》な自然薯《じねんじよ》買《か》うておくれなはらんかいなア。」……はおもしろい。朝《あさ》まだきは、旅館《りよくわん》の中庭《なかには》の其處《そこ》此處《こゝ》を、「大《おほ》きな夏蜜柑《なつみかん》買《か》はんせい。」……親仁《おやぢ》の呼聲《よびごゑ》を寢《ね》ながら聞《き》いた。働《はたら》く人《ひと》の賣聲《うりごゑ》を、打興《うちきよう》ずるは失禮《しつれい》だが、旅人《たびびと》の耳《みゝ》には唄《うた》である。
 漲《みなぎ》るばかり日《ひ》の光《ひかり》を吸《す》つて、然《しか》も輕《かる》い、川添《かはぞひ》の道《みち》を二町《にちやう》ばかりして、白《しろ》い橋《はし》の見《み》えたのが停車場《ていしやば》から突通《つきとほ》しの處《ところ》であつた。橋《はし》の詰《つめ》に、――丹後行《たんごゆき》、舞鶴行《まひづるゆき》――住《すみ》の江丸《えまる》、濱鶴丸《はまづるまる》と大看板《おほかんばん》を上《あ》げたのは舟宿《ふなやど》である。丹後行《たんごゆき》、舞鶴行《まひづるゆき》――立《た》つて見《み》たばかりでも、退屈《たいくつ》の餘《あま》りに新聞《しんぶん》の裏《うら》を返《かへ》して、バンクバー、シヤトル行《ゆき》を睨《にら》むが如《ごと》き、情《じやう》のない、他人《たにん》らしいものではない。――蘆《あし》の上《うへ》をちら/\と舞《ま》ふ陽炎《かげろふ》に、袖《そで》が鴎《かもめ》になりさうで、遙《はるか》に色《いろ》の名所《めいしよ》が偲《しの》ばれる。手輕《てがる》に川蒸汽《かはじようき》でも出《で》さうである。早《は》や、その蘆《あし》の中《なか》に並《なら》んで、十四五艘《じふしごさう》の網船《あみぶね》、田船《たぶね》が浮《う》いて居《ゐ》た。
 どれかが、黄金《わうごん》の魔法《まはふ》によつて、雪《ゆき》の大川《おほかは》の翡翠《ひすゐ》に成《な》るらしい。圓山川《まるやまがは》の面《おもて》は今《いま》、こゝに、其《そ》の、のんどりと和《なご》み軟《やはら》いだ唇《くちびる》を寄《よ》せて、蘆摺《あしず》れに汀《みぎは》が低《ひく》い。彳《たゝず》めば、暖《あたゝか》く水《みづ》に抱《いだ》かれた心地《こゝち》がして、藻《も》も、水草《みづくさ》もとろ/\と夢《ゆめ》が蕩《とろ》けさうに裾《すそ》に靡《なび》く。おゝ、澤山《たくさん》な金魚藻《きんぎよも》だ。同町内《どうちやうない》の瀧君《たきくん》に、ひと俵《たはら》贈《おく》らうかな、……水上《みなかみ》さんは大《おほき》な目《め》をして、二七《にしち》の縁日《えんにち》に金魚藻《きんぎよも》を探《さが》して行《ゆ》く。……
 私《わたし》は海《うみ》の空《そら》を見《み》た。輝《かゞや》く如《ごと》きは日本海《につぽんかい》の波《なみ》であらう。鞍掛山《くらかけやま》、太白山《たいはくざん》は、黛《いれずみ》を左右《さいう》に描《ゑが》いて、來日《くるひ》ヶ峰《みね》は翠《みどり》なす額髮《ひたひがみ》を近々《ちか/″\》と、面《おも》ほてりのするまで、じり/\と情熱《じやうねつ》の呼吸《いき》を通《かよ》はす。緩《ゆる》い流《ながれ》は浮草《うきぐさ》の帶《おび》を解《と》いた。私《わたし》の
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