はせて見送《みおく》つた。おなじやうに、或《あるひ》は傾《かたむ》き、また俯向《うつむ》き、さて笛《ふえ》を仰《あふ》いで吹《ふ》いた、が、やがて、來《き》た道《みち》を半《なか》ば、あとへ引返《ひきかへ》した處《ところ》で、更《あらた》めて乘《の》つかる如《ごと》く下駄《げた》を留《とゞ》めると、一方《いつぱう》、鎭守《ちんじゆ》の社《やしろ》の前《まへ》で、ついた杖《つゑ》を、丁《ちやう》と小脇《こわき》に引《ひき》そばめて上《あ》げつゝ、高々《たか/″\》と仰向《あふむ》いた、さみしい大《おほき》な頭《あたま》ばかり、屋根《やね》を覗《のぞ》く來日《くるひ》ヶ峰《みね》の一處《ひとところ》を黒《くろ》く抽《ぬ》いて、影法師《かげぼふし》を前《まへ》に落《おと》して、高《たか》らかに笛《ふえ》を鳴《な》らした。
――きよきよらツ、きよツ/\きよツ!
八千八谷《はつせんやたに》を流《なが》るゝ、圓山川《まるやまがは》とともに、八千八聲《はつせんやこゑ》と稱《とな》ふる杜鵑《ほとゝぎす》は、ともに此地《このち》の名物《めいぶつ》である。それも昨夜《さくや》の按摩《あんま》が話《はな》した。其時《そのとき》、口《くち》で眞似《まね》たのが此《これ》である。例《れい》の(ほぞんかけたか)を此《こ》の邊《へん》では、(きよきよらツ、きよツ/\)と聞《き》くらしい。
ひと聲《こゑ》、血《ち》に泣《な》く其《そ》の笛《ふえ》を吹《ふ》き落《おと》すと、按摩《あんま》は、とぼ/\と横路地《よころぢ》へ入《はひ》つて消《き》えた。
續《つゞ》いて其處《そこ》を通《とほ》つたが、もう見《み》えない。
私《わたし》は何故《なぜ》か、ぞつとした。
太鼓《たいこ》の音《おと》の、のびやかなあたりを、早足《はやあし》に急《いそ》いで歸《かへ》るのに、途中《とちう》で橋《はし》を渡《わた》つて岸《きし》が違《ちが》つて、石垣《いしがき》つゞきの高塀《たかべい》について、打《ぶ》つかりさうに大《おほき》な黒《くろ》い門《もん》を見《み》た。立派《りつぱ》な門《もん》に不思議《ふしぎ》はないが、くゞり戸《ど》も煽《あふ》つたまゝ、扉《とびら》が夥多《おびたゞ》しく裂《さ》けて居《ゐ》る。覗《のぞ》くと、山《やま》の根《ね》を境《さかひ》にした廣々《ひろ/″\》とした庭《には》らしいのが、一面《いちめん》の雜草《ざつさう》で、遠《とほ》くに小《ちひ》さく、壞《こは》れた四阿《あづまや》らしいものの屋根《やね》が見《み》える。日《ひ》に水《みづ》の影《かげ》もさゝぬのに、其《そ》の四阿《あづまや》をさがりに、二三輪《にさんりん》、眞紫《まむらさき》の菖蒲《あやめ》が大《おほき》くぱつと咲《さ》いて、縋《すが》つたやうに、倒《たふ》れかゝつた竹《たけ》の棹《さを》も、池《いけ》に小船《こぶね》に棹《さをさ》したやうに面影《おもかげ》に立《た》つたのである。
此《こ》の時《とき》の旅《たび》に、色彩《いろ》を刻《きざ》んで忘《わす》れないのは、武庫川《むこがは》を過《す》ぎた生瀬《なませ》の停車場《ていしやぢやう》近《ちか》く、向《むか》う上《あが》りの徑《こみち》に、じり/\と蕊《しん》に香《にほひ》を立《た》てて咲揃《さきそろ》つた眞晝《まひる》の芍藥《しやくやく》と、横雲《よこぐも》を眞黒《まつくろ》に、嶺《みね》が颯《さつ》と暗《くら》かつた、夜久野《やくの》の山《やま》の薄墨《うすずみ》の窓《まど》近《ちか》く、草《くさ》に咲《さ》いた姫薊《ひめあざみ》の紅《くれなゐ》と、――此《こ》の菖蒲《しやうぶ》の紫《むらさき》であつた。
ながめて居《ゐ》る目《め》が、やがて心《こゝろ》まで、うつろに成《な》つて、あツと思《おも》ふ、つい目《め》さきに、又《また》うつくしいものを見《み》た。丁《ちやう》ど瞳《ひとみ》を離《はな》して、あとへ一歩《ひとあし》振向《ふりむ》いた處《ところ》が、川《かは》の瀬《せ》の曲角《まがりかど》で、やゝ高《たか》い向岸《むかうぎし》の、崖《がけ》の家《うち》の裏口《うらぐち》から、巖《いは》を削《けづ》れる状《さま》の石段《いしだん》五六段《ごろくだん》を下《お》りた汀《みぎは》に、洗濯《せんたく》ものをして居《ゐ》た娘《むすめ》が、恰《あたか》もほつれ毛《げ》を掻《か》くとて、すんなりと上《あ》げた眞白《まつしろ》な腕《うで》の空《そら》ざまなのが睫毛《まつげ》を掠《かす》めたのである。
ぐらり、がたがたん。
「あぶない。」
「いや、これは。」
すんでの處《ところ》。――落《お》つこちるのでも、身投《みなげ》でも、はつと抱《だ》きとめる救手《すくひて》は、何《なん》でも不意《ふい》に出《で》る方《はう》が人氣
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