《とよをか》から來《く》る間《あひだ》、夕雲《ゆふぐも》の低迷《ていめい》して小浪《さゝなみ》に浮織《うきおり》の紋《もん》を敷《し》いた、漫々《まん/\》たる練絹《ねりぎぬ》に、汽車《きしや》の窓《まど》から手《て》をのばせば、蘆《あし》の葉越《はごし》に、觸《さは》ると搖《ゆ》れさうな思《おもひ》で通《とほ》つた。旅《たび》は樂《たのし》い、又《また》寂《さび》しい、としをらしく成《な》ると、何《なに》が、そんな事《こと》。……ぢきその飛石《とびいし》を渡《わた》つた小流《こながれ》から、お前《まへ》さん、苫船《とまぶね》、屋根船《やねぶね》に炬燵《こたつ》を入《い》れて、美《うつく》しいのと差向《さしむか》ひで、湯豆府《ゆどうふ》で飮《の》みながら、唄《うた》で漕《こ》いで、あの川裾《かはすそ》から、玄武洞《げんぶどう》、對居山《つゐやま》まで、雪見《ゆきみ》と云《い》ふ洒落《しやれ》さへあります、と言《い》ふ。項《うなじ》を立《た》てた苫《とま》も舷《ふなばた》も白銀《しろがね》に、珊瑚《さんご》の袖《そで》の搖《ゆ》るゝ時《とき》、船《ふね》はたゞ雪《ゆき》を被《かつ》いだ翡翠《ひすゐ》となつて、白《しろ》い湖《みづうみ》の上《うへ》を飛《と》ぶであらう。氷柱《つらゝ》の蘆《あし》も水晶《すゐしやう》に――
    金子《かね》の力《ちから》は素晴《すば》らしい。
    私《わたし》は獺《かはうそ》のやうに、ごろんと寢《ね》た。
    而《さう》して夢《ゆめ》に小式部《こしきぶ》を見《み》た。
    嘘《うそ》を吐《つ》け!
 ピイロロロピイ――これは夜《よ》が明《あ》けて、晴天《せいてん》に鳶《とび》の鳴《な》いた聲《こゑ》ではない。翌朝《よくてう》、一風呂《ひとふろ》キヤ/\と浴《あ》び、手拭《てぬぐひ》を絞《しぼ》つたまゝ、からりと晴《は》れた天氣《てんき》の好《よ》さに、川《かは》の岸《きし》を坦々《たん/\》とさかのぼつて、來日《くるひ》ヶ峰《みね》の方《かた》に旭《ひ》に向《むか》つて、晴々《はれ/″\》しく漫歩《ぶらつ》き出《だ》した。九時頃《くじごろ》だが、商店《しやうてん》は町《まち》の左右《さいう》に客《きやく》を待《ま》つのに、人通《ひとどほ》りは見掛《みか》けない。靜《しづか》な細《ほそ》い町《まち》を、四五間《しごけん》ほど前《まへ》へ立《た》つて、小兒《こども》かと思《おも》ふ小《ちひ》さな按摩《あんま》どのが一人《ひとり》、笛《ふえ》を吹《ふ》きながら後形《うしろむき》で行《ゆ》くのである。ピイロロロロピイーとしよんぼりと行《ゆ》く。トトトン、トトトン、と間《ま》を緩《ゆる》く、其處等《そこら》の藝妓屋《げいしやや》で、朝稽古《あさげいこ》の太鼓《たいこ》の音《おと》、ともに何《なん》となく翠《みどり》の滴《したゝ》る山《やま》に響《ひゞ》く。
 まだ羽織《はおり》も着《き》ない。手織縞《ておりじま》の茶《ちや》つぽい袷《あはせ》の袖《そで》に、鍵裂《かぎざき》が出來《でき》てぶら下《さが》つたのを、腕《うで》に捲《ま》くやうにして笛《ふえ》を握《にぎ》つて、片手《かたて》向《むか》うづきに杖《つゑ》を突張《つツぱ》つた、小倉《こくら》の櫂《かひ》の口《くち》が、ぐたりと下《さが》つて、裾《すそ》のよぢれ上《あが》つた痩脚《やせずね》に、ぺたんことも曲《ゆが》んだとも、大《おほ》きな下駄《げた》を引摺《ひきず》つて、前屈《まへかゞ》みに俯向《うつむ》いた、瓢箪《へうたん》を俯向《うつむき》に、突《つ》き出《で》た出額《おでこ》の尻《しり》すぼけ、情《なさけ》を知《し》らず故《ことさ》らに繪《ゑ》に描《か》いたやうなのが、ピイロロロピイと仰向《あふむ》いて吹《ふ》いて、すぐ、ぐつたりと又《また》俯向《うつむ》く。鍵《かぎ》なりに町《まち》を曲《まが》つて、水《みづ》の音《おと》のやゝ聞《き》こえる、流《ながれ》の早《はや》い橋《はし》を越《こ》すと、又《また》道《みち》が折《を》れた。突當《つきあた》りがもうすぐ山懷《やまふところ》に成《な》る。其處《そこ》の町屋《まちや》を、馬《うま》の沓形《くつがた》に一廻《ひとまは》りして、振返《ふりかへ》つた顏《かほ》を見《み》ると、額《ひたひ》に隱《かく》れて目《め》の窪《くぼ》んだ、頤《あご》のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな年《とし》であつた。
 うか/\と、あとを歩行《ある》いた方《はう》は勝手《かつて》だが、彼《かれ》は勝手《かつて》を超越《てうゑつ》した朝飯前《あさめしまへ》であらうも知《し》れない。笛《ふえ》の音《ね》が胸《むね》に響《ひゞ》く。
 私《わたし》は欄干《らんかん》に彳《たゝず》んで、返《かへ》りを行違《ゆきちが》
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング